発達障害と信仰③御国に過集中
※今日は前半は真面目ですが後半はお遊び的な記事です!
神学者がそれを認めるかどうかは別として、あらゆる神学は経験から始まる。西洋の神学伝統から生み出された神学者は、神学を志す誰もが学ばなければならないものとして、彼らの神学の普遍性をよく主張する。しかし普遍的な神学など存在しないのだ。《略》人間は皆特定の場に生きる有限な存在であって、私たちの神理解はその経験から生み出されるのである。もちろん私たちの固有の経験が何らかの普遍性を指し示すことができれば幸いであるが、ある経験がそっくりそのまま普遍性を持つことはありえない。もし私たちが自らの神についての言説を究極的な現実と勘違いしてしまうなら、それは固有の経験のイデオロギー化に他ならないのだ。
ジェイムズ・H ・コーン『誰にも言わないと言ったけれど 黒人神学と私』173-174頁
最近読んで感銘を受けた本です。黒人神学についてはほとんど学んでこなかったのですが、これを機にきちんと学んでいきたいと思わされました。
「人間は皆特定の場に生きる有限な存在であって、私たちの神理解はその経験から生み出されるのである」ということは聖書を読むすべての人にとって大切な意識だと思います。私たちは聖書を読むときに、自分の経験から聖書を、神を、福音を、人間を…その他諸々のことを理解します。
どうしても自分の読みが一番「普遍的」あるいは「普通」に思いたくなる誘惑はあるかもしれません。(皆さんはそうではないかもしれませんが私はよくそういう誘惑にあいます)けれども、自分が「普通」だと思い、自分を「基準」にしてしまうことは危険です。
どんな読みも偏っているということは、「普通」に聖書を読みたい者にとってはがっかりすることかもしれません。けれども、みんなそれぞれ偏っているからこそ私たちは互いから学び合いながら豊かな読みをしていく、豊かに神さまを理解していくことができるのだと思います。
以前出会うこと① (amazingscale.blogspot.com)で「相手をプロフェッショナルとして尊敬する」ということについて書きました。教会にはプロフェッショナルが沢山います。互いをプロフェッショナルとして尊敬しながらお互いの豊かな神理解を学んでいけたらと思います。
と、ここまでは真面目な話をしていきましたが、ここからはリラックスして読んでください…。
我が家には「ADHDのプロフェッショナル」がいます。「ADHDのプロフェッショナル」である夫が福音書を読むと面白いことに気づきます。それは、イエスさまってちょっと発達障害っぽい!?ということです…!
※「イエスさまは発達障害だった」という新説を唱えたいわけではありません。そういう読みも面白いよね、くらいでお読みください…m(_ _"m)
■育てにくい子だった?
「イエスさまって発達障害ぽくない?」と私が最初に思ったのはルカ2章だったような…。
そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。(ルカ2:46)
両親そっちのけで興味のあるところに行ってしまう、そこで3日も過ごしてしまう、心配する親に対して「どうしてわたしを捜されたのですか」と平然としているところはADHDっぽいなと思います。しかも「わたしが父の家にいるのは当然」とちょっとずれたマイルールがみんなに通じると思ってしまうところもそれっぽいし、この堂々とした態度も…。きっと育てにくい、でも憎めない子どもだったんだろうな、と思います。
■人ごみでは集中できない?
私は気づかなかったのですが、夫がよく「発達障害っぽい」の根拠に挙げる箇所です。
だが、イエスご自身は寂しいところに退いて祈っておられた。(ルカ5:16)
発達障害と信仰①生きづらさを抱えて生きる (amazingscale.blogspot.com)や発達障害と信仰②発達障害当事者と生きる教会 (amazingscale.blogspot.com)でも書きましたが、ADHDの困りごとは集中力のコントロールができないことです。人込みにいると目や耳に入る刺激を全部まともに受け取ってしまいます。だから祈る時や自分と向き合わなければいけない時は人込みから避難しなければいけないようです。
ちなみに、発達障害でなくても人がいると集中できないとか、静かなところで勉強したいとかいう人は多いと思いますが、私は逆に音がないと落ち着かないので勉強や読書はファミレスやファストフード店でしていることが多いです。
■融通が利かない?
四福音書のすべてに記される宮清めの記事もなかなか発達障害っぽさを感じます。
四福音書のすべてに記される宮清めの記事もなかなか発達障害っぽさを感じます。
そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」(マタイ21:13)
たとえ神さまのみこころから外れていても、人々は(気づていたのかどうかはわかりませんが)神殿のシステムを黙認していたわけです。けれども、イエスさまは「黙認」はできませんでした。よく言えば真面目、悪く言えば融通が利かない性格なのです。夫も「そのくらいスルーしなよ~」と思うところに引っかかります。
■常識は無視?
挙げるとキリがありません。
安息日規定を破り、罪人と食事をし、病人に触れ、当時の宗教的な教えをひっくり返し…
すると、パリサイ人たち、律法学者たちが「この人は罪人を受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。(ルカ15:2)
「常識を無視しよう」と思って無視しているわけではないのでしょう。けれども、「常識」よりも大切なものに基づいて行動するので、イエス様を悪く言う人が多いのは納得です。
■会話が噛み合わない?
福音書の書き方のせいだ、と言われればそれまでですが、イエスさまって結構会話が噛み合っていない、自分の言いたいことを言う、みたいなところがありますよね。イエスさまと会話するのって、結構大変だったんじゃないかと思います。
……「では、私の隣人とはだれですか。」イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが……」(ルカ10:29-30)
だれですか、って聞いてるんだから答えてあげなよ! いきなりたとえ話始めるんじゃなく! と、いつもこの箇所を読みながら思います。ここの律法学者とイエスさまの会話のテンポ、私のお気に入りです。
■御国に過集中!
こういったイエスさまの行動はすべて御国への過集中からきていると言っても良いでしょう。
「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)
イエスさまにとって他のことは目に入らないのです。発達障害の人が過集中モードに入るととんでもない力を発揮します。イエスさまにとって御国以外のもの、たとえば常識やルール、その場の空気なんかはどうでもいいものだったのでしょう。だから、ひたすら過集中して生き抜かれたのだと思うのです。
…と、イエスさまの発達障害っぽさ(ADHDっぽくもありASDっぽくもある)を挙げてきましたが、これはほんのお遊びです。「黒人解放の神学」や「フェミニズム神学」といった神学のようにしっかりと「発達障害者解放の神学」をしていくこともできるのかもしれないなとは思いますが、私には余力がありませんし、そもそも私は一番そのことで困っている当事者というわけではなく、当事者家族です。
※「当事者」という言葉については究極の当事者性 (amazingscale.blogspot.com)をご覧ください!!
福音書記者の書き方の問題、ということもありますし、この程度なら発達障害でなくてもあてはまる(そもそも発達障害の症状はそうでない人にもあてはまるものが多くあります。発達「障害」と診断されるのは、それが日常生活を送るのに支障が出るからであって、程度の問題だったりもします)ということもあります。
けれども、こんな風に福音書を読んでみると、私たち発達障害当事者とその配偶者、という夫婦にはイエスさまをとても身近に、立体的に感じられます。そして、「特性も悪くないよね」と思えるのです。
発達障害は生きづらさを与えます。二次障害も引き起こします。でも、私は夫の特性にイエスさまに似たものを感じています。
「発達障害と信仰」は3回シリーズの予定でしたが、いろいろな方とかかわっていく中で、カサンドラ症候群(発達障害当事者の配偶者、あるいは身近な人に起こる心身の不調)についての情報発信もしたいと思い始めました。次回かその次に「発達障害と信仰④カサンドラ症候群」について書こうと思います。
※夕べの祈りは次回は8月20日です。
※毎月第二・第四金曜日に更新しています(次回の更新は8月26日)
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