はじめに②祝福といのち
神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」
創世記1:26-28
私のビジョンは「あり得ないほどのスケールで祝福を広げる」ことですが、そもそも祝福とは何でしょうか。
私は「祝福」ということばは「いのち」というものと切っても切り離せない関係にあると考えています。ということで、聖書に描かれる「いのち」のイメージからお話ししたいと思います。
神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。
創世記2:7
身体が形づくられただけでは人間は「生きるもの」とはなりませんでした。神さまにいのちの息を吹き入れられる、つまり神さまによって生かされてはじめて人はイキイキと生きることができます。これが聖書の語る「いのち」の基本です。
では、神さまと交わりを持ったら、それで十分なのでしょうか。ある面ではそれで十分なのですが、聖書にはこうも書いてあります。
また、神である主は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」
創世記2:18
ここで使われている「良い」とは「そのものの良さが発揮されている」という意味の言葉です。人は人との関わり合いの中でその人の良さが生かされる、ということです。聖書はこのことを創世記のはじめにはっきりとそう言い切っている、神さまとの関係だけでなく、人と人が関わっていくことを大切にしている、ということに目を留めたいのです。
そもそも創世記1章を見てみると、人は「神のかたち」として創造されたと書いてあります。「神のかたち」が何を指すのかはいろいろな考え方がありますが、「神のかたち」の文脈で「支配」という言葉が使われていることに注目したいと思います。「支配」というより「管理」と訳したほうがふさわしいかもしれません。人間は世界の「管理人」として世界に、自然や社会や、まわりの人たちに仕えていく存在として造られたのです。
私たちひとりひとりは「管理人」としてそれぞれユニークなその人だけの「いのち」の使命があるのです。
実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。
エペソ人への手紙2:10
神さまによって生かされ、イキイキ生き始めたひとは、「神のかたち」として仕えていく生き方、愛する生き方をすることでさらに豊かな「いのち」を生きていくことになります。「神さまと関係を持つ」ということは「いのち」の基本として重要ですが、その「いのち」が人や世界のあらゆるものと関わることでさらに豊かなものになっていくということまで聖書は描いています。
「祝福」とは、神さまが人を豊かな「いのち」へと押し出していくことです。
ヘブライ語で「祝福する(בָּרַךְバーラク)」は、「祝福する」という意味だけでなく「ほめたたえる」という意味もあります。人間に対して使う時は「祝福する」、神さまに対して使う時は「ほめたたえる」という意味です。
神さまは私たちの「いのち」に対して「あなたのいのちは最高だよ!」と応援してくれて、私たちも神さまに「あなたは最高です!」と返す。「祝福」って神さまとのそんな素敵な関係です。
神さまに愛され、支えられ、応援され、その愛と支えと応援に感謝しながら世界にその「いのち」の豊かさを分かち合って生きていく。これが「祝福」を広げていく生き方だと私は理解しています。
私は学校の教員をしていますが、教育は「祝福」を広げる働きだと思っています。目の前の生徒を尊い「いのち」として、「神のかたち」として造られた可能性ある存在として見て、その「いのち」が「神のかたち」を回復してさらに豊かな「いのち」を生きるためにはどうしたら良いか考え、関わる。
1人の教員にできることは限界がありますが、少なくとも私はそういう思いで生徒と関わっています。
生徒だけではなく、いま出会っている人、これから出会っていく人、その人たちの「いのち」のために生きていきたい。それが、「あり得ないほどのスケールで祝福を広げる」ことだと私は思っています。
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