はじめに⑤私のいのち

病者、そしてすべての苦しむ者は、同時に癒す者となりうる。傷を負っているということが、彼らの物語の潜在的な力の源となる。その物語を通して、病者は自分たちとその聴き手との間に共感的な紐帯を作りだす。その紐帯は、物語が語り直されるたびに広がっていく。《略》物語には癒す力が備わっているのであるから、傷ついた癒し手と傷ついた物語の語り手とは別々のものではなく、同一の人物の異なる側面なのである。

アーサー・W・フランク『傷ついた物語の語り手』4頁

はじめに① (amazingscale.blogspot.com)

じめに②祝福といのち (amazingscale.blogspot.com)

はじめに③いのちと聖 (amazingscale.blogspot.com)

はじめに④いのちと罪 (amazingscale.blogspot.com)

 

ときたので、最後は「はじめに⑤いのちと御国」かなとも思ったのですが、「いのちと御国」は私のこれからの働きを通して語っていきたいと思い、代わりに「はじめに⑤私のいのち」というタイトルで、ここ数年の私の物語をお話しして「はじめに」シリーズを終えたいと思います。

(長いです)

 

もともと自己肯定感が低かった私は、「それでも神さまは私を愛してくれている」と知って信仰を持ちました。けれども、信仰を持ってからしばらくして起きた出来事によって、自分を愛することがさらにできなくなりました。

そんな私を癒してくれたのは神学校の仲間たちでした。温かくて謙遜な先生たちに愛情をたっぷり注がれ、支え合える友達と出会い、みことばにどっぷり浸かり、私はもう一度愛されているという確信を持つことができるようになり、「あり得ないほどのスケールで祝福を広げる」というビジョンに向かって歩み始めました。

けれども、幼い頃から私のアイデンティティを形成していた「自分を愛せない」は、簡単になくなってはいませんでした。卒業後、私は「自分を殺す」ということが自分の召しなのではないかと勘違いし、徹底的に自分を殺し始めました。我慢する、耐える、沈黙する、本当の自分を見せない、自分からは事を起こそうとしない…そんな生活を半年以上続けたある日、「頭が動かない」という状態になりました。

会話が理解できない、授業準備ができない、夜ご飯の買い物もできない、何をしたらいいかわからない…とにかく理解すること、判断することが一切できなくなりました。毎日できることが減っていきました。恐怖でした。

ささやかに出したSOSに気づいてくれた神学校の先生が言ってくれたのが「由佳ちゃんは生きなきゃいけない」「由佳ちゃんはいのちなんだよ」という言葉でした。はっとしました。

 

そこから「いのち」との格闘が始まりました。


私が「生きる」ってどういうことなんだろう。

どうしたら「生きる」ことができるんだろう。


「はじめに」シリーズで語っている「いのち」観は、私の一年以上に及ぶ格闘から生み出されたものです。この「いのち」との格闘を経て、私は悔い改めに導かれました。

 

私は私の「いのち」を阻害していた。これからは私の「いのち」を愛して生きていく。

私は私に与えられた神さまのビジョンに忠実に、誠実に生きていく。もう自分自身にも、誰にも、何にも、私の「いのち」を阻害させはしない。

 

それが私の悔い改めでした。

そして、そういう生き方をしていくなら、自分に起きるすべてのことに自分の責任で対処していくことが出来る、他人のせいにすることをしなくてもいい、ということにも気づきました。

 

人が友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

ヨハネの福音書15:13


私はこの「捨てる」を長いこと誤解していました。自分のいのちを踏みにじり、価値のないもののように扱うことが「捨てる」ことだと思っていたのです。ですが、最近この箇所をギリシャ語で読み、自分の間違いに気づきました。「捨てる」と訳されている言葉は16節では「任命する」と訳されているτίθημι(ティセーミ)という言葉だったのです。


あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。

ヨハネの福音書15:16

いのちを「捨てる」とは、自分のいのちを価値のないものとして踏みにじること、我慢して息を止めて生きているのに死んだような状態に自分を置くことではなかった。むしろ、この「いのち」を精一杯使って誰かのために生きていくこと。この「いのち」を尊い働きのために任命すること。死ぬことより生きることをすすめられていたのだと気づきました。

だから私はこれから、決して自分のいのちを粗末に扱うようなことをしないと決めました。自分のいのちを精一杯愛し、神さまから与えられた召しに精一杯生きたいと思います。


この「いのち」との長い葛藤の中で、私はあることができるようになりました。それは、「自分の物語を物語る」ということです。

もともとの自己肯定感の低さと、信仰を持ったあとに起きた出来事によって、私は自分の気持ちを語ることが極端に苦手になっていました。礼拝説教や授業で話すのは問題ないし、むしろ好きなのですが、私自身のこと、私自身の気持ちを語ろうとするとパニックになってしまっていました。

「誰も私の気持ちに興味なんかないだろう」「誰も私の話なんか聞きたくないだろう」「話してもどうせ理解してもらえない」そんな気持ちから、自分の話は極力しないようにしていました。特に不安や怒り、悲しみや寂しさといった感情は、どんなに仲が良い人であっても話したくない、と思っていました。

けれども、私のこの癖が私をいのちの阻害へと追い込んでいました。


私には「メンター」と呼べる人が何人かいます。

この人たちは私の様子がおかしいのに気づき、私に私の物語を物語らせてくれました。隠さなければいけないと思い、神さまにさえ見せたくなかった負の感情を引き出してくれました。

語りたくない、とも思いました。「メンター」だという信頼がなければ絶対に話したくない、話すのが苦しすぎる、そんなことも語らせてくれました。

そういう人たちとの関わりの中で、私は私の物語は語る価値のあるものなのだという実感を持つことができるようになりました。

どんなに拙い口調であっても、一生懸命聞いてくれる人、そしてそれを聞いても私を否定せずに愛してくれる人がいるのだと体験させてくれました。

私は、私の感情を大切にすることができるようになりました。

今は趣味の短歌と日記で自分の気持ちと向き合う練習をしています。「いま悲しい」「いま苦しい」程度のことであれば自分から言えるようになりました。

まだまだ練習が必要ですが、これから私は私自身の「いのち」のために、自分の物語を語っていこうと思います。

冒頭に引用した『傷ついた物語の語り手』は私の愛読書です。物語は、語る者だけでなく聴く者にとっても意味のあるものである、癒しの力を持ち、人を連帯させるものである、フランクはそんなことを言っています。

私の物語が果たして誰かを癒す力を持つものになり得るのか…今は自信がないですが、いつかそうなるように願いつつ、これからも私の物語を語っていきたいと思います。

読んでくださる皆様、愛してくれる皆様、ありがとうございます。


「はじめに」シリーズはこれで終わりです。週末はのんびりして、来週から具体的な働きの報告(と言っても準備中ですが)をしていきます。

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