はじめに④いのちと罪

あなたがたが行ったすべての背きを、あなた方の中から放り出せ。このようにして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ、なぜあなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばない―神である主のことばー。だから立ち返って、生きよ。
エゼキエル書18章31-32節

この箇所から「生きよ」という説教をしたことがあります。(結構お気に入りです)聖書が私たちに望んでいるのは「生きよ」ということなんだ、イキイキとあなたらしく生きていくことなんだ、そんなメッセージでした。
そのためには「悔い改め」が必要です。罪が問題とされるのは、「いのち」の対極だからです。

「いのち」とは神さまによって生かされ関係性の中でその人の良さが発揮されイキイキと生きること。その逆が「罪」です。

だから必ずしも悪事のことを指すのではありません
本田哲郎という神父は「罪」を「道をふみはずす」という言い回しで表現します。(少し長いですが引用します)

一方、イエスにとっては、力をもつ者が立場の弱い者を抑圧したり、差別することは、ゆるせないことであり、また、不当に抑圧され、差別されている者が文句もいわずあきらめてひたすら耐えていることは、がまんのならないことでした。どちらも神の生きざまとは相容れないことだからです。どちらもあゆむべき「道をふみはずしている」のです。ベトサダの池のほとりで、長年、病気に対して受け身でしかなかった人に対して(ヨハネ5・14)、あるいは不倫のかどで捉えられて立ちすくむだけだだった女性に対して(ヨハネ8・11)、イエスが、「もう、罪を犯すな」と言います。また、涙を流しながらイエスの足を髪の毛でぬぐい、香油をぬりつづける「罪人」と見なされていたひとりの女性に対して(ルカ7・47)、あるいは、人の家の屋根までこわして担架ではこびこまれたからだの麻痺した人に対して(ルカ5・20)、イエスは「あなたの罪はゆるされている」と言います。
前者は「もう、道をふみはずすな」(一方的に差別されるまま黙っているな。耐えられない痛みは訴えていかなければ、神の国は実現しないよ)ということであり、後者は「あなたは道をふみはずしていないよ」ということです。
本田哲郎『小さくされた人々のための福音』25-26頁

本田神父の視点は、「罪」について新しい視点を提供してくれます。
「罪」は個人個人が良い人なのか悪い人なのか以上の意味を持ちます。
その人が、神さまに与えられ、生かされている「いのち」を十分に生きているかが問題であり、「いのち」を十分に生きていない状態を「罪」というのです。

その人の「いのち」を阻害するあらゆるものを「罪」と言います。
(「罪」というと悪事のイメージが強いので、私は「ずれ」と呼んでいます)

悪事も「ずれ」です。人を愛さない生き方、そういう生き方は「神のかたち」として造られ、「神のかたち」として生きていくべきその人の「いのち」を阻害します。
自分を神として自分勝手に生きるとき、「いのち」の源である聖なる神さまから離れていきます。だからそういう生き方は「的外れ」なのです。
人が社会から抑圧されるということも「ずれ」です。人が人としての尊厳を認められず、虐げられて生きる現実は、その人の「いのち」を阻害します。
イキイキと生きるようこの世界に置かれた人間の「死」も悲しくて大きな「ずれ」です。

そういうあらゆる「ずれ」を聖なる神さまは憎み、悲しまれます。だから、あらゆる「ずれ」を解決するためにイエスさまをこの世に送ってくださったのです。

神さまは「悔い改めて生きよ」と呼びかける。誰にも死んでほしくない、死んだような生き方をしてほしくないから。「ずれ」が問題とされるのは、神さまがルールを厳守する方だからではなく、「いのち」を愛する方だからです。

「神のかたち」として造られ、イキイキと生きるべき「いのち」が、いろいろな「ずれ」によって阻害されている現実があります。私の専門はキリスト教倫理ですが、倫理は社会にある「ずれ」を扱うことの多い分野です。差別、貧困、戦争、環境…あらゆる場面で人間のずれた現実と痛みがあらわれます。
特に私はセクシュアリティ(性の在り方)によって阻害されている人たちと出会ってきました。自分はどうして他の人と違うんだろう、自分はおかしいんじゃないか、そんな悩みを抱えながら生きてきて、ただでさえ自分の「いのち」を愛することが難しいのに、さらに共同体からひどい言葉をかけられ、否定され、余計に「いのち」として生きることが難しくなる。
私は、「ずれ」によって阻害されている人たちに神さまと同じ言葉をかけたい。「悔い改めて生きよ」と言いたいのです。「悔い改めよ」とは「良いひとになりなさい」という意味ではない。(良い人になることも全く含まれていないわけではありませんが)

あなたのいのちには可能性がある。あなたは神さまが造られた「いのち」をもっとイキイキと歩んで行くことができる。そういう生き方をしようよ。

そう呼びかけることだと思っています。

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