発達障害と信仰②発達障害当事者と生きる教会【限定記事】

さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れてきた。ところが弟子たちは彼らを叱った。イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。
マルコの福音書10章13-16節


夫は大人になってから発達障害と診断されましたが、大人になってから発達障害を診断された人の多くが二次障害を抱えています。



発達障害の二次障害 – 株式会社Kaien – 発達障害の方のための就職応援企業 (kaien-lab.com)より



生きづらさを抱え、失敗を繰り返し、周囲から叱責されたり「怠け者」「やる気がない」といったレッテルを貼られたりすることで自己肯定感が下がり、精神疾患を発症したり社会で生きていくのがさらに困難になるような行動をとってしまったりしてしまうのです。



発達障害の二次障害とは?症状や治療について | ブレインクリニック (tokyo-brain.clinic)



この二次障害は、発達障害そのものの特性以上に深刻です。二次障害は事者のいのちを阻害します。
「自分はダメな人間だ」「何をやってもうまくいかない」そんな内なる声が、ただでさえ生きづらさを抱えている当事者をさらに追い詰めていきます。

私は、教会が二次障害を緩和させる場であったら良いと願っています。
ですが、残念なことに教会も発達障害の当事者にとって必ずしも癒しの場になっているわけではないというのが現実ではないでしょうか。

前回、発達障害を持つ夫にとって社会は生きづらさを覚える場所であり、教会も例外ではないと書きました。自力で集中力をコントロールできる「健常者」と比べて礼拝しようと思ってもそれを阻む刺激があまりにも多すぎるのです。

礼拝のプログラム、教会の伝統、「普通ではない」ことによって周囲から向けられる視線…あらゆるものが発達障害当事者を神さまを礼拝することから遠ざけます

教会のイメージ(amazingscale.blogspot.com)の冒頭でも、マルコ10:13-16を引用し、私にとって理想の教会は「イエスさまのまわり」だと言いました。(こちらの記事もあわせてお読みください)

子どもたちが「イエスさまのまわり」から排除されそうになったように、発達障害当事者も「イエスさまのまわり」から排除されそうになることがあります。
夫との生活の中で、どうしたら彼が「イエスさまのまわり」から排除されずに礼拝することができるのだろうと考えてきましたが、答えは出ませんでした。

そんな時に出会ったのがY教会です。
Y教会は、そんな彼にとってとても過ごしやすい教会のようでした。
何故夫はこんなに居心地良さそうに過ごしているのだろうと思いました。
夫は答えました。

「歓迎されていると感じるから」

Y教会に二人で行く前、一度私が一人で礼拝に出ることがありました。その時に夫が発達障害であること、礼拝中に出入りしたりスマホを見ていたりすることがあると伝えました。刺激が多すぎるために出入りが必要だったり、入ってくる刺激を減らすためにスマホを見ていたりしています。どちらも夫にとっては礼拝に集中するための工夫ですが、何も知らない人が見たら「礼拝に集中していない」ように見えることもあるようです。その時に「礼拝中に出入りしてくれてもスマホを見ていてくれても構いませんよ」と言われたのです。
その言葉が、夫に安心感を与えたようでした。夫は、すぐにY教会に好感を持ち、今は安心して礼拝しており、それまでは集中して聞くことができなかったメッセージを集中して聞くことができているようです。

このY教会の対応に、私は大切なことを学びました。

それは、人がイエスさまのまわりに来ようとするのを妨げてはならないということです。

私は夫の発達障害がわかったあとも、長い間夫に「普通」でいることを求めていました。「普通」の夫婦でありたいし「普通」の人と同じように振る舞ってほしい、特性は理解しているけれど、人前では「普通」を装ってほしい、と。
けれども、「普通」に礼拝するのでは、夫は礼拝に集中できないどころか、自分が歓迎されていないと感じるのです。
私がすべきなのは「普通」を求めることではありませんでした。
私がすべきことは―相手が発達障害であろうとなかろうと―の人をまるごと受け止め、その人が「イエスさまのまわり」に行くことを邪魔しないことなのだ、と。

少し話が逸れますが、「普通」という言葉は発達障害当事者と当事者家族にとってはとても切ない思いをさせられる言葉です。夫や当事者の人たちが「普通になりたかった」「普通が良かった」と言っているのを聞くたび、苦しくなります。本当は誰よりも「普通」でありたいと願っているのは当事者なのです。悲しいほどに「普通」を追い求め、そして諦めてきた人たちに、これ以上「普通」を求めるのはあまりにも残酷です。

話を戻します。

長い間夫が教会で居心地よく過ごせるわけがない、と思ってきました。発達障害ゆえのこだわりが強すぎ、その夫のこだわりに全部こたえてくれる教会などあるわけがない、と思っていたからです。

ですが、こだわりの全部にこたえる必要などないということを知りました。
Y教会も、こだわりに”全部”こたえてくれる教会ではありません。「居心地よく礼拝できるヒントがあれば言ってください」と言っていただきましたが、残念ながらまだ、私たち夫婦にも、夫が完璧に居心地よく過ごすためにはどうしたら良いかということはわかっていません。だから、”全部”こたえてもらうことができません。

でも、「完璧」である以上のものをY教会は私たち夫婦に与えてくれました。それが「歓迎されている」という感覚です。

歓迎されている、配慮されている、受け入れられている。彼が求めていたのはその感覚であって、何もかも自分に合わせてほしいと思っていたわけではないし、多少気になることがあっても、受容されていることがそれを乗り越えさせるのだということがわかりました。

Y教会は英語と日本語の二か国語で礼拝をしています。礼拝はwelcome to Your Church.という言葉で始まります。私もその言葉に、ここにいていいんだ、と思います。
Welcome to Your Church.
あらゆる人にそう声をかける教会でありたい、と思います。

あらゆる人の特性に完全に合わせることはできません。Y教会も、決して発達障害当事者が生きやすいようにもともと工夫していたわけではないと思います。(だからこそ、今真剣に夫が礼拝しやすいように模索してくださっているのだと思います)けれども、「普通」であることよりも、人が「イエスさまのまわり」に来ることを大切にしていくならば、あらゆる人が過ごしやすい教会になるのだと思います。

発達障害にもいろいろな特性があります。夫はADHDが強いタイプですが、ASDが強い人もいますしLDを持つ人もいます。同じADHDが強いタイプでも色々です。「発達障害当事者にとって過ごしやすいのはこれ」とテンプレートを作ることはできません。
必要なのはテンプレートの対応ではなく、「あなたはここにいていい」というメッセージを伝え続けることだと思うのです。

次回は7月22日、「発達障害と聖書」について書く予定です。

※夕べの祈りは次回は7月16日です。
※毎月第二・第四金曜日に更新しています(次回の更新は7月22日)