教会のイメージ
さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れてきた。ところが弟子たちは彼らを叱った。イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。
マルコの福音書10章13-16節
私が教会を考える上で大切にしているみことばです。
私にとって理想の教会とはイエスさまのまわりです。
「子ども」とは誰のことでしょうか。
マルコ6:44には「パンを食べたのは、男が五千人であった」マタイ14:21には「食べた者は、女と子どもを除いて男五千人ほどであった」という表現があります。これらの表現からわかることは「子ども」とは「数に入れられない存在」だということです。
「数に入れられない存在」「取るに足りない存在」「人として扱われない存在」です。
イエスさまはそういう存在を「来させなさい」と言い、来るのを阻もうとした弟子たちに憤り「邪魔してはいけません」と言い、子どもたちを大切に抱き上げ、祝福された。
教会とは、そういう場所だと私は信じています。
たとえ社会で「数に入れられない存在」「取るに足りない存在」「人として扱われない存在」のようにされてしまっている人がいるとしても、「イエスさまのまわり」である教会には、居場所がある。
そういった人たちを排除しようとする人や力、構造に憤り、そういう人たちを神の国に招き入れ、大切に抱きしめ、生きる力を与える。
それが教会だと信じています。
現在あるすべての教会がそういう場所になっているかどうかはわかりません。
けれども、私は、私が関わる教会はそういう場所であってほしいし、そういう場所を建て上げるために召されたと信じています。
もう一か所、教会を考える上で大切にしているのはこのみことばです。
しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の名誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。
ペテロの手紙第一2章9節
「神のもの」である教会には使命があります。「祭司」として「選ばれ」、「聖なる」生き方をする、という使命です。
「聖」についてはこの記事で書きました。
「聖」という言葉にはどこか浮世離れしたイメージがあります。けれども、聖書が語る「聖」は浮世離れとは真逆の方向性を持つ言葉です。
神さまの「聖」は、出て行って「聖」ならざるものを「聖」なるものに変えていく、いのちなきものにイキイキとしたいのちを与え生かしていく。そのようなご性質です。
教会は出て行き、いのちを広げていく使命がある。教会というキリストのからだを形成するひとりひとりには、そのひとりひとりにしか果たせない使命があり(Ⅰコリント12:12-26)みんなでキリストの手足となっていく存在である。
教会は「キリストのからだ」です。
イエス・キリストがその公生涯で行ったことを引き継いでこの地上で行っていく集まりです。
だから、教会はイエスさまの姿をあらわし、イエスさまのみわざの目的を教会の目的としていくべきだと私は考えています。
そのようなイメージを大切にして行ける牧会者になっていけたら、と願っています。
※夕べの祈りは次回は6月11日です。https://youtu.be/UCctvYZ-yf4
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