夕べの祈り(5月14日分)【限定記事】
Peter has only one option: He must give voice to his experience. Commentators on this text tend to read past its most surprising reality. Here powerful word is present in weakness. Peter stands before his redeemed kin in utter vulnerability. He has no textual witness to fall back on, no prophetic utterances to conjure from the collective memory of his people. The prophets of old did not prepare him for this Gentile emergency. He is speaking to those who know him and know the faith. This is always the most difficult site to speak from for any servant of Jesus, one drenched in the familiar. This was also the case for Jesus. He too spoke on well-worn paths of hearing and seeing, knowing and doing to those who resisted his embodied newness. The only argument Peter could give with kinship eyes bearing down on him was no argument at all, simply an experience.
Willie James Jennings”Acts: A Theological Commentary on the Bible”
牧師のReinaさん、神学生のTomokoさんと一緒にYouTube「夕べの祈り」Breadshare - breadshare ページ! (jimdofree.com)に参加しています。三人の女性クリスチャンが聖書から分かち合いをし、お祈りして終わる、というシンプルなものですが、ReinaさんとTomokoさんのみことばや人との関わりに対する感性がとても素敵なのでおすすめです。(私も必死でついていこうとしています…!)
月二回程度、今は土曜日の夜が多いですが、YouTubeですのでもちろん後から観ることもできるのでご視聴いただけると嬉しいです。
私が参加し始めたのは5月14日(土)からですが、配信の都合で途中から切れてしまったので、その後私がお話ししていたことをお分かちしようと思います。
※ちなみにその次は5月28日20時からです!!
聖書箇所:使徒言行録 16章16-34節
これまでの配信:https://breadshare.jimdofree.com
5月14日は使徒言行録11章1-18節からでした。
さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、
「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。
「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。
「汚れたものを口にしたことがない」と躊躇うペテロに、神さまは「神が清めたものを清くないなどと言ってはならない」と言われます。そしてこのエピソードは、異邦人の救いを喜ぶエピソードで締めくくられます。
「こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。
調べていく中で、冒頭に引用した文章と出会いました。
ペテロは同胞の前で、「自分の経験を語る」という選択肢しかなかった、ということが心に残りました。
意識的であれ無意識であれ、私たちは人を排除してしまいます。「隔ての壁」を作ってしまいます。その「隔ての壁」を作るのに、聖書が根拠とされることがあります。こういうことは罪だから、証しにならないから、教会の一致を壊すから…等々。
「隔ての壁」を壊そうとする時に大切なのが、ペテロのように「自分の経験を語る」ということではないかと思うのです。神さまが自分をどのように導き、どのような人と出会わせ、どのような出来事に直面させてくださったか。
イエスさまも「出会う」ことで「隔ての壁」を壊していきました。
私自身も「出会う」ことで変わりました。
私は、もともとはすぐ人を裁き、すぐ人を排除する人間でした。何が罪で何が罪でないか、そういうことにばかり気が向き、聖書が罪だと言っていないことまで拡大解釈して罪とみなすタイプの人間でした。
当時の私には、人を排除する「正当な理由」がありました。排除している意識すらなく、「人の罪を指摘して悔い改めの機会を与えている」くらいに思っていました。(いま思い返すと恥ずかしくなりますし怖くなります)
そんな私に、神さまは沢山の人と出会わせてくださいました。
その「出会い」が私の「隔ての壁」を壊してくれました。
「恐怖は無知から生じる」(エマーソン)という言葉があります。
私たちは、知らない人や世界を恐れ、その恐れが差別を生み、差別が排除に向かいます。かつての私もそうでした。
でも、出会うことでわかります。
神さまがその人たちをいかに愛しておられるか、神さまの造られたその人たちがいかに尊い存在であるか。
その「出会い」は、私たちの聖書観や神観を変えていきます。
個人的な経験で聖書観や神観が変わってしまって良いのか、と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、私は良いと思います。私たちの聖書の読みは私たちの経験に影響されます。
個人的な経験で聖書観や神観が変わってしまって良いのか、と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、私は良いと思います。私たちの聖書の読みは私たちの経験に影響されます。
誰もがそうです。何物にも影響されないニュートラルな読みなどというものは存在しません。
そんな私たちの経験を導くのも神さまです。神さまが私たちの人生に介入される、ということを信じるなら、その介入の結果である「経験」から聖書を読み直していくということはとても意味のあることだと思うのです。
私たちは偏見の塊です。偏見の塊だということは、「隔ての壁」を作りやすいものだということです。神さまは、そんな私たちに介入してくださるのです。
新約聖書に出てくる初代教会の信仰者たちもそうでした。イザヤ書42章6節には、ユダヤ人が「諸国民の光」となることが書かれています。神さまの関心が異邦人にも及んでいることは旧約聖書にも書かれているのです。それでも彼らは異邦人との間に「隔ての壁」を作ってしまいました。
その「隔ての壁」を壊したのは使徒11章では、ペテロの「経験」「出会い」でした。
私の中に、気付いていない「隔ての壁」が沢山あると思うのです。だから私は沢山の人と出会っていきたい。それが、イエス・キリストのもたらした復活のいのちに生きる、新しく始まった神の国を生きる、ということだと思うからです。
実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
エフェソの信徒への手紙2章14-16節
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