聖書科教員の日常
弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。
コリント人への手紙9章22-23節
前回の記事で私がどんな思いを持って教員の仕事をしているかについて書きました。この記事では聖書科の教員はどんな仕事をしているのかもう少し詳しくご紹介しようと思います。
ほかの科目の教員と変わりません。中学校教諭(宗教)・高校教諭(宗教)の教員免許がとれる大学に行き、必要な科目を履修し、実習に行けば宗教の免許状が取れます。教員免許には教職に関わる科目と教科に関わる科目があり、教職に関わる科目は他の教科と変わらず、教科に関わる、つまり宗教関係の科目を必要な単位履修するだけです。
ちなみに、免許は「聖書」ではなく「宗教」なので、一応仏教でも神道でも教えられる資格ではあります。(でも、知識がないので教えられません)
聖書科だから特殊なわけではなく、立場は他の教科と一緒です。
ただ、聖書科の特別さもあります。
まず、教育と牧会の両方の側面があること。
私は教育とは幸せになるための知識・技術を身に付けさせる働きだと考えています。
だから授業では、聖書と向き合うことを通して幸せになるための知識を提供し、技術を育てていきます。聖書から生きていく上で糧となるようみことばを紹介し、それに関係する様々な知識を与え、文章を読んだり意見を表現したりする練習となるよう授業内容を汲み立てていきます。
ちなみに、他教科は学習指導要領に基づいて授業内容が決まりますが、聖書科は学校によって教える内容は異なります。
授業では、生徒のこころに深く触れるような内容を扱うことがあります。
みことばを読んで自分と向き合う、自分の生き方や世界と向き合うという作業は、時に過去のトラウマや見ないようにしていた事柄と直面させることにも繋がります。特に高校3年生ではキリスト教倫理を扱っているので、死の問題や暴力の問題と向き合う中で、こころがしんどくなってしまう子が何人か出てきます。「ゆるし」というテーマで生徒が過去に受けたいじめを思い出して攻撃的な態度をとり始めた、ということもあります。
聖書の授業は、そういう生徒のこころの問題が浮き上がりやすい授業です。
だから牧会的なかかわりも必要になります。
私の牧会の定義は、みことばによって、あるいはみことばに基づく働きかけによって人をいのちに導くことです。
生徒のいのちが悲鳴を上げているのに気づいたら、時間をとってその部分をケアしていきます。
聖書科教員の日常の中には礼拝説教があります。
私はこれはちょっとした職人芸だと思っています。
教会の説教とは違います。
信仰者はほぼいない。求道者ですらない。
教会で当たり前に使われている用語は使えなません。だから言い換えます。「贖い」「交わり」「献身」などはもちろんのこと、時には「信仰」や「神さま」という言葉すら生徒に伝わる言葉に言い換えていきます。
宣教師が宣教地の言語と文化を覚えていくように、生徒と関わりながら言語と文化を習得し、一番相手に届く言葉や表現を探していきます。
そして、聖書の権威は通用しません。
相手が信仰者であれば「聖書に書いてあるから」「イエスさまがそうされたから」ということで十分なことも、学校礼拝では不十分です。
自分の生きてきた経験を語り、社会で起こっている出来事から例を挙げ、学校生活での適用に繋げ…と、聖書が何を言っているかよりも聖書が生き方に適用されるとどうなるかを中心に語ります。
そして、それでも福音を語るのです。
道徳のお話ではなく福音の宣教をする。
聴き手がキリスト教界の常識とは違った常識の中に生きており、そしてこれからもそう生きようとしている相手であっても、きちんと福音の中心が伝わっていくように語ります。
そのためには、御国のライフスタイルを語る必要があります。
私はいかに御国を生きようとしているのかという証しをすることが多いです。ちなみに、大抵は失敗談です…。
そして、私はこう信じている、とはっきり言います。
でも、信じなくても構わない、とも言います。それはあなたの自由だから。
でも、知っていてほしい。覚えていてほしい。この聖書のメッセージと向き合ってみてほしい。そして、いつか思い出してほしい。と伝えます。
でも、届くのです。全員にではないけれど、届く生徒には届きます。(教員にも)
彼らは「信仰を強制されない」という安心感の中で、福音と向き合います。そして、御国のライフスタイルに惹かれたり、慰められたりするのです。
ちなみに、外部講師の場合はこういう「職人芸」ではない説教が語られます。それもまた良いものです。
教員は多少のブレーキをかけて喋っています。伝わる言葉と伝わらない言葉をある程度知っているし、普段の関係性もあるし、各方面に配慮もします。
外部講師はブレーキも関係性もありません。普段の礼拝とは違う頻度で「神さま」という言葉が出てきて、信仰がまっすぐ語られます。
これが新鮮でいいと私は思っています。
そもそもキリスト教学校に来て語ってくれようと引き受けてくださる先生方は、ちゃんと生徒を愛してくれる。たった一回の出会いでも、福音が届くようにと祈りつつ(かどうかはわからないけれどきっと)語ってくださいます。
そもそも教育はチームプレーです。
聖書科の教員、チャプレン、別の年度で教えた聖書科の教員、担任、他の教科担当、外部講師…いろいろな人が生徒と関わりながら、御国を生きられるように生徒に働きかけます。
キリスト教学校は「建学の精神」に基づいて、それぞれの学校でキリスト教教育の目指すゴールを共有しています。
そのゴールを目指し、信仰の有無にかかわらず学校全体が生徒と関わっていくのです。
教会とは違った御国の福音の宣教の在り方がキリスト教学校にはあり、学校は学校でとても魅力的な場所だな、と思っています。
【おしらせ】
・ブログを始めて1か月経ったので、ここからは更新ペースを落として月二回の更新(第2、第4金曜日)にしていきたいと思います。
・5月14日20時から「夕べの祈り」というYouTubeの祈祷会でお話に参加します。よろしかったらお聴きいただけると嬉しいです。(https://youtu.be/LYteTyDXJM0)
※5月14日は配信の都合で途中までで切れてしまいました。次回は5月28日の予定です。