出会うこと②



色々な用語が出てきてかえってわからなくなってしまったという方もいらっしゃるかと思います。でも、その「わからないんだ」ということを大切にしていただきたいのです。目の前のひとりについて完璧に知っているのは、その方をお造りになった神様ご自身だけです。これまで培った知識や常識といったものを一旦わきへ置いて、神様から出会わせていただいたお互いを知ろうとしてみませんか?
「なんで教会がツライのか考えてたら出来た性理解のためのブックレット」

「わからないんだ」ということは誰かの話を聞く上ですごく大切です。

「わからないんだ」と認めることが決めつけてしまうことから私たちを守ってくれます。
私たちは相手の人生についてプロフェッショナルではなく、語ってくれる相手がプロフェッショナルです。その謙遜さをもって出会っていけば、私たちはあらゆるプロフェッショナルの方から学び、世界を知り、人生を豊かにしていくことができます。

※ただし、自分の人生を豊かにするため”だけ”に相手の物語を聞くことはそれはそれで暴力的なことだと思います。この話はいずれまた別の記事で…。

ぜひ観ていただきたい動画があります。
動画のはじめに私の大切な友達がライフストーリーを語ってくれています。
(三部構成になっていて長いですが、ぜひ最後まで! 三部構成の最初がライフストーリーです)

彼を、彼の属性で判断して決めつけることは簡単です。
でも、彼が彼自身の言葉で語るライフストーリーを、「寺田留架」という人生のプロフェッショナルとして尊敬して聞くことによって、属性で決めつける以上の「出会い」ができます。
その時、彼を導いてこられた神さまと、あらゆる痛みを通らされながらも神さまとともに歩み続けた彼の信仰を知ることができます。

旧約聖書で「知る」と訳されている言葉は、単に知識として「知る」というだけでなく体験として「知る」という意味を含みます。
「わからないんだ」という謙遜さをもって彼のライフストーリーを聞く時、神さまと彼の信仰を、私たちは単なる知識以上に「知る」ことができるのです。

(もちろん「知る」ことができるのは一部分で、本当に深く知ろうとするなら、神さまとも人とも長い時間をかけてともに歩んで行くことが必要ですが、それはそれとして)


神さまがなぜ自分をこのように造ったのかわからない、教会で「姉妹」と呼ばれる、本を読めば「神さまは男と女しか造っていないから性同一性障害は間違いだ」と書かれている…信仰を捨ててもおかしくないだろう環境の中で彼が「もうキリスト教なんて」と思わなかったのはご両親が彼を理解しよう、歩み寄ろうとして愛していたからだ、と語っています。(彼自身の信仰の決断があったからこそ信仰を持ち続けることができたのはもちろんですが)
「出会う」「一緒に生きる」とはこういうことなのではないかと思うのです。

「理解される」ことは嬉しいことです。
でも、100%他人を理解することはできません。それなのに100%「理解した」と思い込むのは危険です。100%「理解できる」と思うのも危険です。
だからこそ、「理解する」ことよりも「理解しようとする」ことの方が大切だと思うのです。

倫理は「人間」と関わるものです。
セクシュアリティ、人種差別、障がい、貧困、戦争と平和、安楽死と尊厳死、人工妊娠中絶、臓器提供、死刑制度、政治、経済、環境問題…ぱっと思いついた順に書いていきましたが、あらゆる倫理的課題は「人間」に関わります。

私たちは時に、現場でまさに痛みを覚えている人たち、困難さを覚えている人たちを置き去りにして論じてしまうことがあります。
現場には痛みがあります。ひとりひとりのライフストーリーがあります。
その課題に関わるすべての人のライフストーリーを聞くことはできません。
私も自分の専門以外の課題に関わるライフストーリーについては完全に無知ですし、セクシュアリティにかかわる痛みを覚えているすべての方と出会うことは不可能です。
けれども、「出会う」「出会わせていただく」「ライフストーリーを聞かせていただく」「それでもわからない」そういう姿勢を持つことなしに倫理を論じることはできません

私ももっと沢山の方に出会っていきたいなと思っています。
このブログを読んでくださっている皆さんのライフストーリーも聞かせていただけたら嬉しいです。