出会うこと①
キリスト教倫理は、初めに『あなたはしなければならない』とか『してはならない』という問題に関心を持つのではなく、むしろ世界を正しく想像するのを助けることを最初の課題とすべきである。…キリスト教倫理の仕事は、基本的にわたしたちに『見る』ことをおしえることである。
ハワーワス『平和を可能にする神の国』65-66頁
「キリスト教倫理」は、世界や自分をどのように「見る」かを考える学問です。私たち信仰者は聖書から世界を見、自分と向き合い、その上で個々の課題を扱うものです。だから、いきなり「〇〇は是か非か」「○○に対してどう対処すべきか」という問いを立てるのではなく、聖書が語る世界観を知っていく必要があります。
けれども、聖書だけ読んでいても世界を知ることはできません。
「キリスト教倫理を学ぶ」ということの中で一番大切なことは「出会う」ことだと私は思っています。
私たちは聖書から世界を知り、人生を知りますが、同時に世界から、人生から聖書を解釈しています。聖書を読めば読むほど人生は豊かになりますが、人生が豊かになればなるほど聖書がわかるようになってくるのです。
だから、聖書の豊かさを知っていくためには「出会う」ことが必要です。
人生を豊かにするための「出会い方」というものがあると私は思っています。
それは、相手をプロフェッショナルとして尊敬することです。
どんな人であっても、その人はその人の人生のプロフェッショナルです。
その人がその人の人生のプロフェッショナルであると認めて敬意を払うことは、その人にいのちを与え、その人の人生の物語を導いてこられた神さまに敬意を払うことにも繋がります。
ある方から「由佳ちゃんは否定しない」と言われたことがあります。
そんなことありません。否定する時はします。でも、そういってもらったことはとても嬉しいことでした。
私は相手の言葉を否定することにものすごく注意を払っています。相手のことばをよく理解もせずに否定することはしたくない、と思っているからです。
私たちはつい相手を決めつけてしまいます。
この人は〇〇という言葉を××という意味で使っているだろう。
この人がこのような振る舞いをするのは、神さまとの関係が良い状態でないからだろう。
この人はこういう家庭環境だから、こういうアイデンティティを持っているだろう。
この人は女性だから、障害を持っているから、外国籍だから、こういう職業だから…
こういう決めつけが有益に働くことが絶対にないわけではないですし、決めつけをなくすことは不可能です。
でも、私はこういう決めつけをしたくない、と思っています。そして、不用意に相手の言葉や状態を決めつけて相手を否定するということをしたくないと思っています。
私自身、決めつけられて傷ついた経験はあります。
けれども、今はそう思っている私も、きっと出会ってきた沢山の人を決めつけによって傷つけてきたはずです。
まずは相手の物語を、語ってくださる相手に敬意を払って聞かせていただく。わからないことがあったら勝手に解釈してしまわないで質問する。それが「出会う」ということだと思うのです。
私はこういう出会い方をナラティヴ・セラピーから学びました。
ナラティヴ・セラピーは、クライエントに自身の物語を語ってもらい、その物語を語り直していくことで人生を生きやすくしていくセラピーです。
ナラティヴ・セラピーは相手を物語る力のあるひとりの人格と認めることから始まります。それは、相手に働かれる神さまと相手が神のかたちとして造られたという事実を認めることに繋がります。
神さまはどんな人にも働かれる。そして、どんな人でも神のかたちであって、豊かな力を与えられている。私はそう信じて人と関わっています。
だから誰かの物語を聞く時、私は基本アドバイスはしません。その人が神さまと向き合い、神さまの前に自力で人生を切り開いて行けるように手助けするだけです。
多分それが「由佳ちゃんは否定しない」という言葉に繋がるのだと思います。
行くべき方向はこちらだ、と力強くアドバイスしてくれるようなカウンセラー(そういう存在も必要です。私にもそういう存在の人はいます)を求めている人には私は物足りないだろうと思いますが、そういう人にはそういうことが得意なカウンセラーがいるので、私は私でひたすら「聞く」という姿勢を貫きたいと思っています。
少し話が逸れてしまいましたが、次の記事でもう少し具体的なお話をしていきたいと思います。