短歌の話【限定記事】


光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

ヨハネの福音書1章5節

そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために人々が光よりも闇を愛したことである。悪を行うものはみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。

ヨハネの福音書3章19-20節

イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」

ヨハネの福音書8章12節


今回は「発達障害と信仰③」の予定でしたが、予定を変更して私の趣味の話をしようと思います。私の趣味は短歌です。中でも伊津野重美『紙ピアノ』(風媒社、2005年)は大好きな歌集です。大好き過ぎて二冊買いました。なぜ二冊目を買ったのか自分でもわかりません。はじめて伊津野さんにお会いして言葉を交わさせていただいた感動でちょっとおかしくなっていたのかもしれません…笑。

手のひらにきみの気配が満ちてきてあかるい 夜の底をゆくときも

伊津野重美『紙ピアノ』(以下同)

歌集『紙ピアノ』とそのあとがきを読む限り、伊津野さんは壮絶な人生を歩んできています。虐待と家庭内暴力、病気。歌集の前半は痛みの中での魂の叫びのような歌が並びます。

てのひらに眠る小鳥のぬくもりが私の手にしたしあわせでした

たった一人の母を許せずたった一人の母を憎めず堕ちてゆく 闇

仕方ないことなんです本当に(ホントウニ?)目は見ないためにもある

けれども後半、少し雰囲気が変わってきます。

見つめ合う畏れのなかにふるえいて ああ こんな にも 息 がくる し い

信じようと思いました この春の光を統べる君をみていて

思い出が残照である坂道を抱いてゆきます 腕をください

そして最後に「手のひらに~」の歌。伊津野さんが「見つめ合」い、「信じようと思」い、「腕をください」と声をかけた相手がだれなのか(そもそも存在しているのか)はわかりません。よく短歌は「作者≠作中主体」と言われます。歌に詠まれている主人公(作中主体)が必ずしも作者とは一致しない、だから作者と重ね過ぎないように、ということです。けれども、私はなんとなく伊津野さんの歌の主人公は伊津野さん自身なのではないか、と思っています。そして、人なのか何なのかわからないけれど「この春の光を統べる君」が存在しているのではないかと思っています。

そして、信仰者にとってイエスさまという存在も、伊津野さんの歌に詠まれている「この春の光を統べる君」に似ているのではないかなと思うのです。

冒頭で引用したように、ヨハネの福音書では世を「闇」にたとえています。私たちが生きる世界は「夜の底」なのです。でも、「あかるい」のは、信仰という「きみ(イエスさま)の気配」が満ちているから。そんなことを連想しながら伊津野さんの歌を読んでいます。

「作者≠作中主体」であることは短歌を鑑賞する際に気をつけなければいけないことなのですが、私にとって私のほぼすべての歌は「作者=作中主体」です。

短歌を始めたのは中学生の時でした。中学2年生の時、気まぐれに何首か詠んでみたところあまりにも酷い歌しかできず「昔の人はみんなできていたことが私にできないなんて!」という随分乱暴な(「昔の人はみんな」なわけではないですよね…)理由で短歌の特訓を始めたのがきっかけでした。

いつの間にか詠うことが好きになり、大学生くらいまでよく詠んでいました。でも、社会人になってゆっくり立ち止まって詠う余裕がなくなり、しばらくは詠むことをやめていました。

ブランクを経て再会したのは鬱がきっかけでした。

神学校卒業後に鬱状態(死にたい、とか苦しい、とかいうことではなく「頭が動かない」状態でした)になり、SOSに気づいてくれた神学校の先生に「心を動かす練習をした方が良い」と映画を勧められたのですが、映画を観る習慣がなく、わざわざ観に行く気力もなかったため途方に暮れていました。小説は好きですが、何しろ「頭が動かない」状態なので一冊読み切る体力もなく…

そんな時にTwitterで流れてきた短歌に、「これなら動かせる」と思ったのが再開のきっかけです。映画や小説と違って短歌はたった31文字で物語が完結します。しかも私にとっては慣れたリズム。短歌のbotを片っ端からフォローし、短歌を読むことで心を動かしていました。「読む」から「詠む」に移るのは時間の問題でした。

気づけばTwitterで短歌アカウントを作成し、毎日一首ツイートするようになり、SNS上の歌会や雑誌への投稿も始めました。

私にとって短歌は祈りです。頭が動かなくて言語化できない気持ち、いい子ぶって口にできない願い、見つめることが難しい心の中のどろどろした感情、そういったものを言語化し、整えていくものです。詠う題材は信仰のことであったりなかったり、むしろ信仰とは何の関係もないものが多いのですが、私は歌を詠むという作業で自分と向き合い、自分のこころを神さまに差し出すことができていると思っています。

最後に自分の過去詠からお気に入りを。

菜の花が由来となった油面通り 学舎は春を待つ場所

禁断のおままごとから覚めたのち豆腐を買いに西友に寄る

疲れたね疲れたって言わせなかったね心ゆくまで今日はお休み

美好ゆか

※筆名の「美好」はきな歌人の伊津野重・山川登子からとっています。

※次回の夕べの祈りは7月30日(土)です。次回のブログ更新は8月12日です。

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