4~8月報告【限定記事】
他者と向き合うというのは、心を開き合うこと、単なる世間話をするようなかかわりではなく、自己をさらけ出してつきあうことをさす。そこでは、自分の考えていること、感じていることが率直に語られ、お互いの思いが共有される。しかし、人と人はあくまでも他人同士だ。ものの見方が違うし、感受性が違う。同じ出来事に対しても、それぞれの受け止め方に多少なりともズレがあるのがふつうだ。自己への気づきを得るためには、そうしたズレを実感することが必要なのだ。
榎本博明『〈ほんとうの自分〉のつくり方 自己物語の心理学』124頁
はじめに⑤私のいのち (amazingscale.blogspot.com)でも書きましたが、私が自分の召しにまっすぐに生きようとし始めたのはつい最近のことです。シンガクのことを含め、私がいま生きている物語を文章にして発信してみよう、と思ったのが4月。こうしてこのブログが始まりました。
なんやかんやで自分に正直に生き始めたら、たくさんの出会いをすることができました。そして、たくさんのことが動き始めました。ひとつひとつを短く振り返ってみたいと思います。
※関連するブログ記事あるいはサイトURLを貼っているのでよろしかったら飛んでみてください。
三人の仲間でヨハネ福音書を読んできましたが、御国ミーティングのパーパス(存在意義、何のために働きをするのか)を決める必要が出てきて、年内にパーパスをつくろうと考え始めました。といっても、パーパスをつくったことなどないので手探りです。私は集団のアイデンティティは物語によってつくられると考えています。三人が共通して持つことのできる物語を作り上げ、そこから簡単な文章でパーパスをつくることができたら、と思っていますがしばらく手探りが続きそうです。パーパスが完成したらブログでお伝えするかもしれません。それまでは何をしているのか見えにくいかもしれませんが、ぜひ見守っていてください。
メンバーを集めたまま何もしていなかった「ゆとりエキュメニカル」ですが、パスカル・ズィヴィーの『「信仰」という名の虐待』を読み始めました。「いのち」を大切にする教会について考える、ということだけで集まったメンバーです。読書会の中で印象的だったのが「教会は隣人愛について学ぶだけではなく、どうやって愛するかの練習が必要なのではないか」という意見と「癒しとは答えをポンと与えられることでなく、ただ共感して、一緒に言葉を失ってくれることなのかもしれない」という感想でした。メンバーはいろいろな背景があります。教会で傷ついた人、今まさに傷ついている人、傷ついてきた経験はない人、そして実際にカルト化した教会を経験した人もいます。それぞれが痛みや疑問や思いを持ち寄って、答えはなかなか出ないけれど、お互いを大切にしながら一緒に立ち止まる、そんな交わりです。読書会以外でもライングループでゆるーくいろいろなことを分かち合っています。ゆるいけれど仲間が分かち合ってくれるひとつひとつの言葉がとても好きです。まだ始まったばかりでこれからどういう方向に行くのかはわかりませんが仲間になってくださる方がいたらお声かけください。大歓迎します。(「ゆとり世代の集まり」と誤解を与える名称ではありますが、「信仰生活にゆとりを」という意味の「ゆとり」です。名前なんとかしなきゃ、と思いつつ気に入っているので変えられない…)
牧師のReinaさんに声をかけていただいて仲間に入ったYouTubeチャンネルで、もともとReinaさんと神学生のTomokoさんが二人でやっていた祈祷会です。だいたい月2回のペース。そう言えば長く”分かち合い恐怖症”だったのですが、ここでは聖書からいろいろなことを分かち合っています。すぐに自分の内側にあることを言葉にする、ということはとてもとても苦手なのですが、観てくださっている方々を含めて、安心できる仲間と語り合うのは楽しいです。ただ、YouTubeという媒体の怖さも感じています。自分が不用意に言った言葉が残ってしまう、そしてそれが誰かを傷つけるかもしれない、そう思いながら反省を繰り返しながらしゃべっています。まだまだYouTube初心者ですが、チャンネル登録して見守っていただけると嬉しいです。
■Y教会
発達障害と信仰②発達障害当事者と生きる教会 (amazingscale.blogspot.com)でも書きましたが、"Welcome to your church."と迎えてくれる教会にしばらく通っていました。SNS上での知り合い(実はそれ以前にも一回お目にかかっていたのですが)この方の牧会している教会に行ってみたいな、と思って行った教会でした。最初に行った時に沢山お話も聞いていただき、祈っていただき、夫婦ともにしっかり受け止めていただいたように思います。短い間でしたが上の記事に書いたように、「ここにいてもいいんだ」と思える空間でした。そして、これからもきっと仲間でいてくれる、祈って支えてくれる、という確信を持っています。きちんとお礼とお別れができず、それが心残りです…。でも、きっとこれからも繋がり続けるのでお別れしなくてもいいのかな、とも思っています。
LGBTQとアライを中心にした教会です。こちらも短い間ですがしばらく通っていました。(礼拝をやっているのは午後なので午前中の礼拝の後行けるんです)ここにいると「普通にならなきゃ」という気持ちから自由になります。多様性があるという意味でみんな「普通」ではないし、あるがままでいいという意味でみんな「普通」、そんな教会です。そして、ただ「普通」に礼拝し、ただ「普通」に愛し合う、余計なものがない、でも必要なものがある。そんな不思議な癒しの教会でした。
※ここの先生がびっくりするくらい愛情があふれている方で、こんな人っているんだなぁと思いました。
「ナッシュビル宣言」が和訳され(その和訳も正確ではない、という批判もあるようですがここでは翻訳には立ち入りません)署名が呼びかけられ、動画も公開され、多くの性的少数者の方が痛みを負いました。痛みを負う人たちのために何かできることはないかと多くのキリスト者が集まりました。正教会、カトリック、プロテスタントのリベラルから保守、その他さまざまな立場の人たちです。まずは「あなたはひとりではない」というメッセージを伝えるための署名活動が始まりました。数が重要なのではなく、共に生きることが目的でした。ですが、沢山の方が傷ついた少数者のために署名をしてくださったということは大きなことだと思います。「憂慮する会」はキリスト者の集まりですが、署名してくださった方は宗教、国籍、セクシュアリティを超えた人々です。私は、神の国のライフスタイルは必ず魅力的なものだとも思っています。だから、神の国のライフスタイルには宗教を超えて仲間になりたいと思う人が出てくる。私たちが必ずしも神の国のライフスタイルができているとは言い切れません。ぶつかって、傷つけて、傷ついて…でも少しでも「共に生きる」ことを目指していくなら、神の国を生きて行けるのではないかと思っています。すでにご署名くださった方、表明してくださった方、署名は迷っているけれど関心を持ってくださっている方、ありがとうございます。
■その他
キリスト教倫理について文章を書いています。ちょっと詰め込み過ぎました。でも、私が大切にしていることは全部ぎゅっと詰め込めた気がしています。あと一息です。
■9月からのご報告
新生キリスト教会連合町田中央教会協力伝道師になります。
導きの為にお祈りいただき、ありがとうございました。ようやくスタートです。
夏休みもあと少しで終わります。授業準備、全然進んでいません…そろそろやらねば。
※次回の「夕べの祈り」は9月10日(土)
※次回のブログ更新は9月23日。9月から毎月第4金曜日に変更します。「発達障害と信仰」シリーズの最終回の予定です。
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