ゆとりエキュメニカル【限定記事】

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ついに、”小さな羊”は立ち止まった。流れに反して、そこに立ち止まった。
何十頭もの羊たちに踏み付けられ、蹴飛ばされ…
大きな羊がさらに声をはり上げて叫ぶ。
「信仰! 信仰! もっと早く、もっと熱心に!
 我々は緑の牧場をつくりあげるのだから!」
”小さな羊”は血まみれになって、あの緑の丘を見上げる。
「私の助けはどこからくるのだろうか…」
あの丘の上にたたずんでいたはずのあの羊飼いが、
谷底で倒れている血だらけの”小さな羊”のすぐそばにいた。
両手を広げ静かに抱き上げる。
《中略》
羊飼いのもとで”小さな羊”は涙する。
羊飼いは彼の血でそまった傷口をそっと拭いながら やさしく語る。
”わたしの愛する羊よ。よく耐えた。わたしのもとで休みなさい”と。
そして新しい毛皮を着せてくださる。
”小さな羊”は魂の底から叫ぶ。
「主は私の羊飼い。私には乏しいことはない」と…
聖なる、聖なる、聖なるかな。万軍の主。全地は主の栄光で満ちる。
「小さな羊」より


パスカル・ズィヴィー『「信仰」という名の虐待』の中で紹介されている詩です。




初めてこの詩を読んだとき、「よく耐えた」という言葉に涙が溢れたのを覚えています。頑張って頑張って傷ついてぼろぼろになった信仰者に神さまがかけてくださる言葉は「もっと頑張れたはずだ」ではなく「よく耐えた」なんだなと神さまの愛に改めて気づかされた詩でした。
信仰共同体の中で傷つくということは深刻です。信仰共同体の中の傷は聖書のみことばや信仰、神学と密接な関係を持つからです。人に傷つけられただけなのに、神さまから否定されたかのような、自分が信仰の落伍者になったかのような気持ちになってしまう。ある信仰共同体から離れる、というだけのことが、神さまから離れるような感覚にもなってしまう。

信仰共同体の中での傷は深刻な「ずれ」です。(ずれについては、はじめに④いのちと罪 (amazingscale.blogspot.com)をお読みください)
そして、私たちは信仰共同体の中で、信仰生活の中で傷ついたり頑張り過ぎてしまったり、頑張らなければと自分を追い込んでしまったり、いのちを得るはずの信仰生活が逆にいのちを傷つけるものになってしまうという事態に直面することがあります。
「ゆとりエキュメニカル」は、信仰者のそういう状態のために何かできることはないか、と始めたグループです。

「ゆとりエキュメニカル」は神学生時代に出会ったPさんと始めました。
同じ献身者(当時Pさんは伝道師でした)、同い年(ゆとり世代)の友達です。
いつ、どのようなタイミングで話したのかは記憶にありませんが、「教会はもっといのちを大切にする場所になることができるのではないか」「ひとりひとりの信仰者を大切にするためにはどうしたら良いのか」という話をよくしていました。
「教会にはゆとりが必要。ゆとり世代だからこそ発信できる信仰生活があるんじゃないか」そう言い始めたのはPさんだったはずです。私はもともと「ゆとり」が苦手、ストイックに自分を追い詰めることが好きなタイプでした。けれども、ふたりで話す中で、そして、私自身が自分のいのちを阻害してしまった経験(はじめに⑤私のいのち (amazingscale.blogspot.com))の中で教会がもっといのちを愛しゆとりある信仰生活を提案していくためのミニストリーができないかと思うようになりました。

「ゆとりエキュメニカル」という名前は「教会生活に”ゆとり”を」という願い(=ゆとり)と「いのちを愛することは教派・神学的立場にかかわりなく信仰者が大切にできるはずだ」という思い(=エキュメニカル)からつけた名前です。

まずは知り合いの中から同じような思いを持っているのではないかという仲間に声をかけ始めました。今は仲間を集めている最中です。特になにかをしているわけではありませんが、少しずつゆとりある活動をしながら「信仰生活と教会といのちとゆとり」にかかわる働きをしていきたいと願っています。

もしも一緒に何かしてくださる方がいたら個別にご連絡いただけるととてもとても嬉しいです。同じ思いを持っていただける方であれば他には何の条件もありません。

まだ特に何かしているわけではないのでご報告することは少ないと思いますが、「信仰生活と教会といのちとゆとり」について思うところをだらだらブログに書いて行こうかなと思っています。

新学期が始まってやっぱりバタバタしています。次の更新は週末の予定です。