詩を読む②~聖書解釈と短歌は似ている!?~

第一に、当時の人々が聞いたことばを聞かなければなりません。以前「そのときそこで」彼らに語られたことを理解しようとしなければならないのです(釈義)。第二に、その同じことばを「今ここで」聞くことを学ぶべきです(解釈学)。
ゴードン・フィー/ダグラス・スチュワート『聖書を正しく読むために』34頁

以前の記事、詩を読む①~短歌と詩篇の共通点!?~ (amazingscale.blogspot.com)に引き続き、俵万智さんの『短歌をよむ』から聖書解釈について考えていきたいと思います。今回は詩篇に限定せず聖書全体と短歌の共通点を見ていきたいと思います。
(前回の記事より少し専門的かもしれません)


※以下、引用はすべて『短歌をよむ』からになります。


また、口に出して読んでみるとわかるが、枕詞が適度にあることによって、意味がとても押さえやすい。(56頁)

短歌には「枕詞」という修辞法があります。”ひさかたの”光、”たらちねの”母、”あかねさす”昼、といった特定の語を引き出すための言葉です。授業で「特に意味はないから訳さなくてよい」という説明を受けた方もいるかもしれません。俵さんはたった三十一文字しかないのに5音も意味のない言葉を使うのはもったいないのでは、「ナントカの」の部分が大切なのに、とはじめは納得できなかったそうですが、大学の講義でやっと「なるほど」と思えたと言っています。

「この時代、歌は耳から入ってくるものでした。枕詞が生まれた背景には、そのことが深くかかわっています。つまり『たらーちねーのォ』ときたら、聞いているほうは『おっ、次に母が来るな』と心を構える。『あしーびきーのォ』と読まれるあいだに、頭のなかで山を思い描く。歌を受け取る側に、そんな時間を与える働きが、枕詞にはあったのです」(56頁)

「たらちねの」「あしびきの」といった枕詞が受け取り手のイメージをふくらませる働きをしていたというのです。それに、枕詞は現代語訳しなくていいとはいえ、まったく無意味な五音ではなく、「たらちねの(垂乳根の)」は赤ちゃんの世話をする母親のあたたかさ、「あかねさす(茜さす)」には太陽の光が差し込むような明るさといった調子で、この五音に付随するお決まりのイメージのようなものがあるわけです。
余談になりますが、私は「ひさかたの」という枕詞が大好きです。「ひさかたの」は「久方の」、つまりはるか遠くの、という意味だと言われています。(諸説あります)光、天、雪、雨といった天に関わることばを引き出します。「ひさかたの」という語には、受け取り手の視線をはるか遠い天に向けさせる働きがあるわけです。「神のかたち」を枕詞を使って言い表すとしたら「ひさかたの存在」になるなと思っています。
だいぶ話が逸れました。
このようにイメージを膨らませることばというのは聖書の中でも出てきます。
たとえば、ヨハネの福音書1章1節の「はじめに(エン アルケー)」という言葉。これはギリシャ語の創世記1章1節の書き出しと同じです。「はじめに」という言葉は、読み手に創世記1章の物語をイメージさせる働きをしているわけです。
聖書の最初の読者であるユダヤ人にとってある単語が他のどんな物語をイメージさせる語であるか知ることは聖書の読みを豊かにするものだと思います。

他のイメージを借りてくる表現はほかにも「本歌取り」という技法があります。

元になる本歌があり、その一部を借りてくることによって、本歌のイメージを、まず提出する。そして、さらに何か新しい展開を、自分なりにつけ加える。つまり本歌が三十一文字かかって表現したものを、その一部で代用してしまい、残りの文字数を使ってさらに表現を広げるわけである。これもなかなか、おいしい話だ。(70-71頁)

たとえば

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日/俵万智

この歌を本歌にしてこんな本歌取りの歌があります。

「この味がいいね」と僕が言ったのにオリーブオイルをかけるもこみち/泳二@Ejshimada

私はこの歌が大好きなのですが、「この味がいいね」で俵さんの有名な歌を思い浮かべて、そのさわやかさや恋のときめきを思い浮かべたというのに泳二さんの短歌でオリーブオイルをかけられてせっかくの味が台無しになるという全然違うイメージにずらされてくすっと笑えるのです。
本歌取りの醍醐味は「ズラし」にあります。本歌取りした歌は元の歌と同じ主題を詠いません。本歌を借りながら必ず「ズラし」をし、その「ズレ」の部分が作者の強調したいことです。
聖書にはいたるところに「本歌取り」が仕込まれています。
たとえば、バビロニア神話『エヌマ・エリシュ』では人は神の血と粘土によって造られます。けれども創世記では人間の材料は土の塵です。この「ズラし」からは他の被造物と何ら変わらない弱い存在であり、人間と神との間には超えられない壁があると創世記の著者の信仰が読み取れます。
同じ創世記でいうと、1章27節に「男と女に」という言葉がありますが、これはもともと男性である王のみを「神のかたち」と呼んでいた文化を本歌とし、「男と女に」という「ズラし」を加えることで、「すべての人が」神のかたちであるということを強調しているわけです。
また、ルカ1章35節の受胎告知の言葉は『ローマ皇帝伝』のアウグストゥスの誕生の「本歌取り」とも言えるような表現であり、「武力によって平和をもたらした救い主」と考えられていたアウグストゥスに対して、本当の平和をもたらす本当の救い主としてイエス・キリストが描かれているということが分かります。武力によらない平和という「ズラし」を行っているのはルカ福音書だけではありません。黙示録もまた、平和をもたらす存在としての力強い獅子のイメージから、屠られた小羊のイメージへの「ズラし」を行い、本当の平和を実現するのは武力ではないということを強調しています。(参考:黙示録における「暴力」 | 鏡を通して ―Through a Glass― (wordpress.com)
マタイ5章22節、28節、32節のイエス様ご自身の「しかし、わたしはあなたがたに言います」は、イエスさまご自身による本歌取りと言えるでしょう。誰もがよく知っている律法という本歌があるからこそ、律法の言葉よりも厳しい基準を提示するイエスさまのズラしが効いてくるのです。なぜイエスさまはより厳しい基準というズラしを行われたのか、それが解釈のポイントになってくるでしょう。
本歌取りについて、こんなことも書かれています。

ところで、まことにわかりきったことだけれど、読者が本歌を知らなかったら、本歌取りというのは、まるで意味をなさない。(74頁)

聖書解釈における「本歌取り」も似ています。聖書記者はあらゆる箇所で「本歌取り」を行っているのですが、どこがずらされたポイントかわからないと聖書記者の「ズラし」を見逃してしまいます。本歌を知らなくても歌を味わうことはできますし、元の文章を知らなくても聖書を味わうことはできます。けれども、どこがその歌のポイントなのか、どこが福音のポイントなのかのヒントが「本歌」には隠されているなと思います。

全部がほんとうではないし、全部が嘘でもない。心の揺れは、たしかにほんとうに私の心に宿ったもの。けれど、それが言葉というかたちになる過程では、現実から離れてゆくこともある。気どった言い方をすると「現実よりも真実を」ということなのだ。(133頁)

サラダ記念日の歌は本当は7月6日に起こった出来事でもないし、もとはサラダですらない、というのは短歌詠みの間では有名な話です。カレー味のからあげを作ってみたら「これイケるね」と言ってもらったことが嬉しかった、というのが実際に起きた出来事です。

カレー味のからあげ君がおいしいと言った記念日六月七日

これが原案だったそうです。そこから初夏のさわやかさや特別な日でないこと(7月7日だと七夕なので恋のイメージがつきすぎる)などにこだわって私たちの良く知っている「サラダ記念日」の歌になったのです。
そういうエピソードを知るとどうでしょうか。「なんだ、嘘だったのか」となるでしょうか。サラダや7月6日といったエピソード自体は「作り物」かもしれません。相手の言った言葉も「この味がいいね」という言葉ではなかったでしょう。けれども、ここで俵さんが詠おうとしているのは、工夫して作った料理をほめてもらえてなんでもない日が記念日のような特別な日になった、という心の揺れであり、この心の揺れは小道具がからあげだろうとサラダだろうと関係なく、真実なのです。
聖書もこれと似ています。たとえば、四つの福音書の間には相違があります。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)とヨハネ福音書には時系列の違いがあります。十字架上の言葉もそれぞれに異なります。マタイ5章での山上の説教はルカでは平地で行われています。これについてはイエスさまが山でも平地でも同じことを語った、という説明がされることもあるようですが、それよりも同じエピソードを、マタイとルカが舞台を変えて語っていると考えるほうが自然です。また、二回同じ説教をしたというのはともかく、十字架に二回かかったということはないでしょう。福音書記者のうち誰かが嘘を書いているのでしょうか、あるいは誰かが記憶違いをしているのでしょうか。そのどちらでもないと私は考えます。山上であるとか平地であるとかは「小道具」に過ぎません。福音書記者が本当に伝えたいのは説教の内容です。また、「小道具」に過ぎないと言っても、まったく無意味なのでもありません。山は権威の象徴。マタイはイエスさまの権威を強調し、ルカは私たちと同じところに立たれているイエスさまの姿を強調しているのです。そして、権威ある方であるということも私たちと同じように立ってくださるということも真実です。記者が伝えたいのは「小道具」を含む「現実」ではなく、「真実」だった。だから、「真実」をより印象的に伝えるために「小道具」に工夫をしたのです。私たちが福音書から読むべきなのはイエス・キリストがどこで何をしたかという正確な「現実」ではなく、イエス・キリストとはどのような方で、この方に従うとはどのようなことかという「真実」です。

短歌を詠むはじめの第一歩は、心の「揺れ」だと思う。どんなに小さなことでもいい、なにかしら「あっ」と感じる気持ち。その「あっ」が種になって歌は生まれてくる。(86頁)

この「あっ」は、私が短歌を詠む上で一番大切にしていることです。題詠といって、題が与えられてそれに沿って詠む、ということも短歌にはあるのですが、基本的には「あっ」に従って歌を詠みます。
聖書も「あっ」によって書かれたものだと思うのです。
聖書はイエス・キリストという方に出会った人、神さまのみわざに驚いた人、聖霊に導かれて生きていく人たちの「あっ」から生まれたのだと思います。
だから私たちも、聖書を読む時「あっ」と思います。同じ「あっ」を日常生活で経験していきます。冒頭の文章に「そのときそこで」と「今ここで」という二つの視点が出てきました。聖書解釈とは「そのときそこで」感じた「あっ」を、「今ここで」の「あっ」に重ね合わせていくものです。
「あっ」と驚く聖書の読み方をしていきたいと思うのです。


※毎月第四金曜日に更新していましたが、来月からは不定期更新になります。

*youtube(164) Breadshare - YouTubeもよろしくお願いします。リアルタイムでも後からの視聴でも嬉しいです。
*恩師、山﨑ランサム和彦師のブログで連載を始めました。聖なるものの受肉(広瀬由佳師ゲスト投稿0) | 鏡を通して ―Through a Glass― (wordpress.com)