バテ・シェバの表情

……ある夕暮れ時、ダビデがとこから起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、一人の女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。……ダビデは使いの者を送って、その女を召し入れた。彼女が彼のところに来たので、彼は彼女と寝た―彼女は月のものの汚れから身を聖別していた―それから彼女は自分の家に帰った。女は身ごもった。それで彼女はダビデに人を送って告げた。「私は子を宿しました。」……ヒッタイト人ウリヤも死んだ。……ウリヤの妻は、自分の夫ウリヤが死んだことを聞き、自分の主人のために悼み悲しんだ。喪が明けると、ダビデは人を遣わして、彼女を自分の家に迎え入れた。彼女は彼の妻となり、彼のために息子を産んだ。しかし、ダビデが行ったことは主のみこころを損なった。……主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を打たれたので、その子は病気になった。……七日目にその子は死んだ。……
第二サムエル記11章2節-12章17節より

バテ・シェバに表情はない水源はコンテクストに奪われてゆく/美好ゆか



バテ・シェバってどんな顔をしていたんだろう、と思うんです。
第二サムエル記の物語に出てくるバテ・シェバには表情がありません。どんな声色で、どんな仕草で、どんな気持ちでいたのか書かれていません。
ダビデが思わず好きになってしまうくらいの美貌だった、ということはわかります。でも、その時の彼女の表情はわからない。

ダビデが恋に落ち、ダビデが召し出して関係を持ち、ダビデの策略で夫ウリヤが死に、ダビデとナタンのやりとりのあと、息子が死にます。
主語はバテ・シェバではない。彼女は主導権を握ることはないのです。

彼女が美しい、というのはダビデの評価です。彼女は水浴びというプライベートな光景をのぞき見され、品定めされます。この聖書の書き方からは、彼女が受けたのが性暴力であるということは見逃されます。彼女は「性」という極めてプライベートな領域に、権力者に土足で踏み入られ、そして妊娠します。この段階で、彼女は何か大切なものを奪われたはずです。
そして、その権力者は彼女の夫を殺します。ウリヤとバテ・シェバの夫婦関係がどのようなものだったかはわかりません。けれども私は、ウリヤが「仲間が戦っているときに自分だけ家に帰っていい思いはできない」と言っており、バテ・シェバも夫の死を悼み悲しんだのだから、なんとなく二人はあたたかい家庭を築いていたように思うのです。彼女はそのような大切な存在を失うのです。
そして、その後彼女は息子を失います。11:27によると、ダビデのしたことの結果として、息子は死にます。性暴力を受け、夫を失い、最愛の息子まで亡くす。産まれたばかりの子を亡くす。これほどの悲しみがあるでしょうか。
けれども聖書は、バテ・シェバの表情を描きません。どれだけの悲しみだったか、どれほど泣いたか、どれほど苦しんだか、どんな思いでその後の人生を生きていったのか、何も記してはいません。バテ・シェバは物語の中でただ奪われるだけです。

そしてそればかりではありません。
私はこの箇所から「バテ・シェバがダビデを誘惑した」というメッセージを聞いたことがあります。人目につくところで水浴びなどしなければよかったのだ、と。バテ・シェバは性に奔放な女性、ふしだらな女性で、そんな女性がイエス・キリストの系図に名を連ねていることはスキャンダラスなことだ、と。
これはセカンドレイプ以外の何物でもありません。

奪われて、奪われて、奪われ尽くした女性。
その死の後もセカンドレイプされ続ける女性。

聖書は彼女の表情を描かない。彼女は沈黙している。それをいいことに、私たちは好き勝手に彼女を責め、奪い続ける。

エッサイがダビデ王を産んだ。ダビデ王がウリヤの妻によってソロモンを産み、
マタイの福音書1章6節

それでも私は思うのです。聖書は彼女を忘れなかった、と。
聖書は、彼女の名を神の物語に連ねることを忘れなかった。
聖書はひとりの、奪われて、奪われて、奪われ尽くした女性がいるということを忘れずに記した。神の物語の中には壮絶な痛みの物語があったのだと忘れずに記した。だから私たちは、いま、彼女の痛みに目を留めることができます。奪われていった多くの女性(女性に限りませんね)たちが、彼女の痛みに自分を重ねることができます。

イエス・キリストの系図はマリアの記事へと続きます。
ヨセフはマリアを離縁しようとしました。イエス・キリストは「ヨセフの子」ではなく「マリアの子」と呼ばれます。マリアもまた、「ふしだら」と烙印を押された女性でした。子を失った女性でもありました。

聖書は、奪われていった人たちの表情を描かない。でも、私たちはその表情に思いを馳せることはできるのではないでしょうか。

最後に、また別の表情のない女性を詠った歌を。

語られぬエリサベツの痛みを測るきつく結んだウェストのリボン/美好ゆか

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