力より強い力(2023年夏学校礼拝原稿)

わたしはまた、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に屠られたような小羊が立っているのを見た。小羊には七つの角と七つの目があった。この七つの目は、全地に遣わされている神の七つの霊である。

ヨハネの黙示録5章6節

天使たちは大声でこう言った。「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です。」

ヨハネの黙示録5章12節





 この世界にはいろいろな力があります。体力、腕力、権力、経済力、影響力…。そして、人の持っている力は同じ強さではありません。力の強い人も弱い人もいます。力の強さは立場の強さでもあります。力の強い人の前で、力の弱い人は無力です。

 黙示録は権力の前に無力だった人々の苦しみの中で書かれた書物です。当時の人々はローマ帝国という強大な力の下にいました。ローマ帝国という力の前で、人々は無力でした。

 覆すことのできない力の差が存在している、というのは、どんな人間関係においてもそうです。人が二人いれば何らかの意味でどちらかが強くなる。そして弱い立場の人は、力で対抗しようと思っても、それができないことがある。

 みんなの日常の中にある「力」はどんな力だろうと考えました。みんなが一番身近に感じることのできる力の不平等、そして、そこで出会う可能性のある理不尽、そういうものを考えていた時、一人の生徒を思い出しました。

 教員になって二年目に担当した生徒でした。人懐っこく、文化祭の時に小さなビニール製の恐竜のおもちゃをたくさんくれました。彼はある時から授業中に不貞腐れた態度をとるようになりました。ある日、クラスメイトが発表をしているとき、彼は自分が座っていた机の脚を蹴り始めました。私に迷惑をかけるのはまだ良い、でもクラスメイトが一生懸命発表しているときにそういう態度をとるのは許せない、やめなさい、そう言うと、今度は机をたたき始めたので、やめるように注意しました。授業を受けたくないなら受けなくていい、でも人に迷惑だけはかけるな、ということを言ったように思います。それからずっと、彼は聖書の授業中ずっと突っ伏して過ごすようになりました。けれども彼は殴り書きのような字で聖書の課題はやっていたし、テストも受けて、決していい点数とは言えないけれど、最低限の点数はとっていました。なんでそこまでの態度をとった彼がテストも課題も最低限はやっていたかわかるでしょうか。簡単なことです。成績や進級に影響するからです。

 彼がそういう態度をとる理由については想像ができました。確かめたわけではないから間違っているかもしれないけれど、おそらく私のあの一言だな、という見当がついていました。あの授業の時、彼に言ったあの言葉が彼を傷つけたんだろうな、という一言です。それなら確かめればよかった、確かめて謝ればよかった。でも、私にはどうしても確かめることも謝ることもできませんでした。

 怖かったんだと思います。自分が何の気なしに言った言葉で生徒を傷つけてしまった、その事実と向き合うことが怖かった。そして、私は悪くなかった、と思い込もうとしました。

彼を抑えつけなければとも思っていました。今よりもっと未熟で、自分の指導力の足りなさは十分自覚していました。ほかの先生みたいに「先生らしく」仕事をこなさなければいけないとも思っていました。彼さえ抑えつけてしまえば、そのクラスは穏やかに授業のできるクラスでした。

 私と彼の間には力の差がありました。私は教師で彼は生徒でした。私は彼に成績をつける立場でした。だから彼は抵抗できるような力を持っていなかった。 

 当たり前のことですが、私は彼に身体的な暴力をふるったことはありません。彼に言った言葉も、すべては思い出せないけれど、ほとんど正論だったと思います。授業を妨害する生徒がいたら注意する、そのこと自体は教師として当然のことです。

 けれども、傷つけたとわかっている相手に謝らなかったこと、謝るどころか、教師という立場を利用して上から物を言って相手を抑えつけたこと、それは紛れもなく暴力だったと思っています。

 向き合えばよかった、話を聞けばよかった。「教師」としてではなく、未熟な一人の人間として頭を下げればよかった。ずっと後悔し続けています。

 だからいま気になる子がいれば、私は片っ端から呼び出しています。話を聞いたうえで解決策を考えたい。そして、一対一で向き合うときは可能な限り全ての力を捨てて人間として向き合いたいと思っています。授業の中でも私がみんなを傷つけたら謝らせてほしいから言ってほしい、とも言っています。

 でも、あの時の弱い私にはそれができなかった。

 本当は、力で武装する人は強い人ではなく、弱い人なんじゃないかと思います。

 いまみんなは中学生/高校生です。けれども、すでに何らかのかたちで誰かより力を持っているはずです。そのことをぜひ自覚して人と関わってほしいと思います。

 聖書を読んでいると「力より強い力」というものがあるなぁと思うのです。「力より強い力」というと言葉遊びのようですが、誰かを力で圧倒する以外の選択肢があるということです。

黙示録5章に出てくる「屠られた子羊」は力より強い力の象徴です。「屠られた」というのは、「殺された」ということです。イエス・キリストが十字架にかかって殺されたことを、聖書は生贄としてささげられた子羊の比喩で表現するのです。イエス・キリストは、不当な理由で自分を逮捕し訴える人たちに力で対抗することはしませんでした。かえって自分の持つ力をすべて捨て、その人たちをゆるしました。

オルガンの後ろにあるステンドグラスは「統治する子羊キリスト」が描かれています。ただの「子羊キリスト」ではなく「統治するキリスト」。十字架にかかって殺されたのになぜ「統治」なのか。今日の聖書でも「屠られた子羊」が殺されたままではなく立っており、天使たちに賛美されています。力をすべて捨てたはずのイエス・キリストは負けたままではなく勝利した。これが黙示録の信仰告白です。 

抵抗してはいけないということではありません。理不尽には抵抗した方がいい。けれども、どんどん力を追い求めていくような生き方ではなく、弱いままで、相手を打ち負かそうとしないで、それでも勝利する道がある、そういうことを聖書は伝えているのです。

 イエス・キリストは力で相手を圧倒することはありませんでした。でも決して「お前なんか偽物のキリストだろう」という声に屈することはなかった。暴力で自分を抑えつけようとする人と同じ土俵に立たなかった。それがイエス・キリストの「力より強い力」を使った戦い方でした。

 皆さんはどんな戦い方ができるでしょうか。力で圧倒するのではなく、力で抑えつけるのでもなく、そして、一切抵抗しないのでもない、「力より強い力」による戦い方という選択肢を持っていてほしいなと思っています。

(2023年夏学校礼拝原稿)



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