詩を読む①~短歌と詩篇の共通点!?~

それは提案でも命令でもなく、私たちを神の物語と接触させる物語でもないので、主な機能は、教理や倫理的振る舞いを教えることではありません。それでも、霊感を与えて詩篇を書かせた神によって意図された目的に用いられるときは、思いを神に述べ、神の道について考える助けとなることによって、有益なのです。ですから詩篇は喜びや悲しみ、成功や失敗、希望や失望を表現する際に助けを求めて、あるいは単に礼拝のために聖書に向かう信仰者に大きな益をもたらします。
ゴードン・フィー/ダグラス・スチュワート『聖書を正しく読むために』332頁

詩篇を読む、神のことばとして人間の文学である詩を読むとはどのようなことか、(115) 2023年5月11日(木)詩(うた)を祈ろう 夕べの祈り - YouTubeの準備をしながら思いめぐらしていました。その時に参考にしたのが上述の『聖書を正しく読むために』と俵万智さんの『短歌をよむ』です。


この本は私が短歌を始めた中学生の時から教科書にしている本です。タイトルの「よむ」には「読む」と「詠む」がかけてあり、第一部では「読む」第二部では「詠む」ことについて書いてあります。これまで私が真剣に読んでいたのは「詠む」方なのですが、今回詩篇についてお話しする上で「読む」方が役に立つのではないかと思い、「読む」の方を中心に読んでいったところ、短歌と詩篇は似ているかもしれない、ということに気づきました。もちろん詩や俳句、その他様々な文学作品にも共通することだと思うのですが、私が多少なりとも嗜んでいるジャンルは短歌であり、ほかの文学作品については語る素養がないので今回は『短歌をよむ』を読みながら短歌と詩篇の共通点を味わっていきたいと思います。

※以下、引用はすべて『短歌をよむ』からになります。

短歌は一人称の文学と言われる。なにも書いていなければ、主語は「我」だ。短歌を読むことは「我」を主人公とする「人生」という物語を読むことでもある。《中略》もちろん短歌は、身の上話ではない。作品を通して知る人生は、作者個人を越えて、私たちに迫ってくるものでなくてはならないだろう。(2頁)

人称についていえば「我」だけでなく「我々」あるいは被造物全体に呼びかけるようなスケールの大きいものもありますが(これは短歌も同じです)、詩とは私性と結びついた文学であると言えるでしょう。しかし、その詩は個人を越えて共同体の歌になります。「私が神さまについてこう思っている」「私が神さまにこう祈っている」そういう極めて個人的な歌が、共同体性を持つのはなぜでしょうか。それは、詩というものが以下のようなものだからではないかと思うのです。

短歌にするということは、非常に主観的な感情を、一度客観の網にくぐらせるということである。主人公の自分を見つめるもう一人の自分がいなくては、定型にしあげることはできないだろう。《中略》そしてそういう過程があるからこそ、主観的な感情が、普遍性を持ち、今でも私たちの心に届くのではないかと思う。(9頁)

もともとは個人的な賛美や願いだったものを、詩という網にくぐらせることで普遍性を持つ歌になっていく。短歌も詩篇もこの点がとてもよく似ていると思うのです。

では、大伯皇女のようなドラマチックな運命をたどった人だけが短歌を作れるのだろうか。もちろんそんなことはない。《中略》が、一方で、日常の中のまことに小さな感動からも、歌は生まれる。私はこれは、短歌の特徴であると同時に、大変な強みではないかと思う。(10頁)

これは大伯皇女が弟の大津皇子を思って詠った歌を紹介した後で俵氏が書いていることです。詩篇は作者のわからない文学です。旧約聖書というイスラエルの民の物語は確かにドラマチックですが、その中に出てくるアブラハムだとかモーセだとか、名前の残っている預言者だとかとは異なり、無名の人たちが書いた詩です。何をもって「ドラマチック」と言うかは難しいところですが、おそらく「ドラマチック」とは程遠い人たちが、日々の信仰生活の営みの中から歌を紡いでいき、そしてそれが共同体の歌、信仰告白として残っていったのだろうなと思うのです。

短歌にとってリズムは、血液のようなものではないかと思う。ハートから送り出されたリズムが、歌のすみずみを駆けめぐるとき、歌は生き生きとしたものになる。(14頁)
短歌はウタというぐらいだから、もともとは声に出して歌われていたものである。文字を持たない時代、あるいは文字を知らない庶民のあいだでは、歌はまず耳から入ってくるものだった。そして口ずさむ。活字文化まっさかりの現代では、短歌はまず目から入ってくるようになった。そして頭へいって意味の理解がなされる。耳から口へ、という流れと目から頭へ、という流れの違いは大きい。……(23頁)

現代の私たちがまず目で見て読むのに対し、本来は耳で聴くものだった、というのも短歌と詩篇の共通点です。リズムや響きを楽しんで口ずさむ、くらいにヘブル語ができたら良いのですが、生憎私は辞書を引き引き目で見て頭で理解するレベルです…。
でも、本来は耳で聴き口ずさむものだったと理解して詩編を読むことは大切です。「この繰り返しには何の意味だあるんだろう」「この単語とこの単語を使い分けているのにはどんな意味があるんだろう」ついついそう考えてしまう箇所もあるかもしれませんが、詩編は詩として響きを整えるために言葉や配列を選んでいることも多いので、頭でっかちになりすぎずに楽しむことが大切です。
いろは歌や短歌でいうところの折句に似たアルファベット順の詩篇なんかは、覚えやすさのためかなと思います。
そういうことを考えると、詩篇ももっとリズムを意識して訳してもいいのかな、と思い、試しに一篇の詩篇を57調に訳し直そうとしたのですが…力不足でした。悔しいです。ヘブル語も詩ももっと頑張らねば。

ぴったり息の合った、はずむようなこの相聞歌を読むと、一瞬にせよ二人(注:額田王と大海人皇子)は、昔にかえったんだなあと思う。虚構という舞台を借りて、真実の愛が蘇ったのかもしれない。戯れの演技ではすまされない、確かな響きが、歌の内側から溢れ出ている。それを感じるのは私だけではないだろう。(35頁)

詩篇を読んでいると、エピソードの時代が混ざっていることがあります。出エジプト、荒野の放浪、イスラエル王国、捕囚…急に過去のエピソードが出てくることがありますが、これがなかなかリアリティがあるのです。決していま実際に出エジプトを経験しているわけではなく、詩人自身も出エジプトを経験した人ではないのに、今まさに救済の出来事が起こっているかのように読める。そんな表現を楽しめるのも詩篇の面白さなのではないかと思います。
ちなみに「虚構」とはフィクションのことですが、短歌でも主に「実景(ノンフィクション)」を詠む人と主に「虚構」を詠む人がいます。この「実景」とか「虚構」とかいう概念はなかなか難しく、聖書解釈ともかかわってくるので次回の記事で扱います。

ところで、五七五七七、という限られた字数でありながら、まったく同じ言葉の組み合わせで詠まれたウタというのはない。煎じ詰めれば「○○さんが好き」ということを、誰しもが自分なりの言葉で、表現せずにはいられないのである。古典を読むおもしろさの一つは、いかに昔の人たちが、自分なりの表現をしてきたか、を味わうことにあるだろう。(51頁)

詩篇も煎じ詰めれば「神さまが好き」あるいは「神さまなんとかして」だと思うのですが、それがひとつとして同じではない表現(似た表現はありますが)で歌われているのが詩篇です。

※毎月第四金曜日に更新しています。

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