あなたは生きていますか(2023年春学校礼拝原稿)

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝です。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

ヨハネによる福音書15章5節



「あなたは生きていますか」というのが今日のタイトルです。あなたは生きていますか。生きているってどういうことでしょうか。

先日、高3の聖書の授業で「ドラえもん問題」を扱いました。

 99年後に誕生する予定のネコ型ロボット「ドラえもん」。この「ドラえもん」が優れた技術で作られていても、生物として認められることはありません。それはなぜですか。理由を答えなさい。(2013年 麻布中学校入試問題 理科)

その中で、複数人の生徒が「自分の意志で動かない(プログラミングされている)」と答えました。そこでふと考えたのは、私たちは本当に自分の意志で動いているんだろうか、ということです。 

私たちの行動や思考はどこまで「自分の意志で」と言えるだろうか。誰かに支配されていないか、コントロールされていないか、誰かの顔色をうかがってはいないか、自分の社会的振る舞いが与える影響が気にならないか。そもそも私たちの行動や思考は、誰と出会い、どんな経験をしてきたかに左右されます。

聖書は、人はみな罪の支配の下にあると言っています。

だから人は自分自身の人生を満足には生きられないのだと。キリスト教でいう「罪」は悪いことだけを指すのではありません。人がいきいきと生きることを阻むありとあらゆるものです。

過去に勤めていた学校でカンニングをした生徒がいました。その子がカンニングしたのは90点以上だと欲しいゲームが買ってもらえるからでした。「そんなことで」と思いました。多分職員室中そう思ったと思います。でも、人って案外「そんなことで」過ちを犯すものだと思うのです。誉められたい、嫌われたくない、馬鹿にされたくない、楽をしたい、もっと自分を見てほしい…「そんなことで」と思うそれらの声が罪の声なのだと思うのです。

傷ついてきた経験が人を悲しい方向に導くこともあります。これ以上傷つきたくない、あの時のようにつらい目にあいたくない、どうせ自分はダメなんだ、何をやっても無駄なんだ…そういう悲しい経験が人を無気力にしたり正しくない道に導いたりする。こちらは同じ「そんなことで」でも、「そんな悲しいことで」という「そんなことで」です。そんな心無い一言なんて無視してしまっていいのに、そう思うけれど、本人にとってはどうすることもできないのです。

でも、そんなことで自分の人生をいきいきと生きられないなんて、それは本当に「生きている」って言えるのだろうかと思うのです。私たちの生き方の原動力はどこにあるんだろうとも思うのです。

愛された経験や幸せな記憶が原動力になればいい。でも、もっと影響力のある人を動かす力は恐怖や傷やトラウマだったりする。悲しいことです。

聖書は、そういう悲しい現実の中で、「イエス・キリストはぶどうの木」だと言っています。そして私たちは枝なんだと。枝は木から養分をもらって実を結びます。恐怖や傷やトラウマを原動力にするのではない生き方、別の場所から栄養分をもらっていく生き方があるのだと聖書は言うのです。そして、それはイエス・キリストという木につながることだと。では、イエス・キリストにつながる、イエス・キリストを原動力にするってどういうことでしょうか。聖書の授業で習ったイエス・キリストのイメージを思い浮かべてみてください。彼が一貫して伝えているメッセージは「あなたは尊い存在だ」ということです。「あなたは神に造られた尊い存在で、あなたにはそれにふさわしい生き方ができる」ということです。罪の声に支配される生き方ではなく、実を結ぶ生き方ができる、ということです。

では「実を結ぶ」とはどのようなことでしょうか。別の聖書の箇所を見ると実の内容が書いてあります。

これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。

ガラテヤの信徒への手紙52223

 

こういう実を結ぶ生き方こそ、本当に人間らしい、いのちある生き方なんだと聖書は言うのです。「そんなことで」と思うような罪に支配されて人を傷つけたり自分自身を傷つけたりして生きるより、愛を結んでいく生き方のほうが真に「生きている」状態なんだというのです。あなたは本当は実を結んでいく生き方のほうがふさわしいのだと。

ドラえもん問題は生物の定義を問う問題。「生きている」という状態がどういう状態かを考える問題です。理科的な答えもあります。(自分で調べるか、理科の先生に聞いてください)理科的な考え方以外にもいろいろな考え方ができると思います。国語的な考え方もできるかもしれない、社会的な考え方もできるかもしれない。聖書的な考え方は「神に生かされ、愛という実を結ぶ生き方をしている状態こそ人間が本当に生きている状態だ」ということです。あなたのいのちは、何を原動力にしているでしょうか。あなたの生き方は、何を生み出しているでしょうか。

あなたは、生きていますか。

(2023年春学校礼拝原稿)

これからたまに学校礼拝の原稿もシェアしていこうかなと思っています。


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