第7回日本伝道会議の感想など

だいぶ時間が経ってしまいましたが9月19日(火)~22日(金)の日程で岐阜県長良川国際会議場を会場に行われた第7回日本伝道会議(以下JCE7)に参加してきたので、その感想などを。
JCE7の感想は一言で言うと「楽しかった」です。こういう機会でもなければ会えない友達に会いたい、それが1番の参加動機でした。ですので、友達に会えて沢山おしゃべりできて楽しかった、というのが1番の感想です。おしゃべりしてくれた皆さん、ありがとうございました。
2番目の参加動機は福音派の現状というものを見てみたい、でした。どうしても自分の教会や自分に近いコミュニティのことしか見えなくなってしまう。だから、もう少し大きな規模で福音派を見てみたい、と思って参加しました。こちらについては一言では言えないので長々と書いてみようと思います。
※いつになく長いです。

JCE7から帰ってきて「いろんな人に聞いてみたかった」ということがいくつか出てきました。それは①教会の危機ってなんだと思いますか?②キリストの体のあるべき姿ってどういうものだと思いますか?③福音って何だと思いますか?ということです。
本当は会場で、できればメインセッションで、そういうことを扱ってほしかったなぁと思いますが、同時に、「全体ではそういうことを扱わない」というのが福音派の現状なのだ、とも思いました。

①教会の危機ってなんだと思いますか?
伝道会議では数の話題が出てきました。教会の数の減少、無牧の教会の増加、牧師の減少、若い世代の減少…けれども、私にはそういう数の問題が教会の危機とは思えませんでした。
もしも教会や牧師がいまの2倍になったとしても、その教会や牧師が神さまの福音のど真ん中を歩んでいないなら、それは教会が危機を脱したということではないと思うのです。逆に、教会や牧師がどんどん減っていっても、その残された教会がキリストの体として神を愛し人を愛し地域に神さまの祝福を流していっていたとしたら、それは喜ぶべきことだと思うのです。
もちろん、数が全く無関係だとは思いません。教会がキリストの体としての役割を損ない、福音が語られることなく、教会が祝福の基でなくなってしまったら…そんな教会に人は魅力を感じないでしょう。
魅力というのは心地よさや耳障りの良い言葉のことではありません。本物があるかどうかということだと思うのです。
たとえば、と思うのです。たとえば今回のJCE7は岐阜で行われましたが、岐阜の人たちは、私たち各地から集まったキリスト者に魅力を感じたでしょうか。本物を感じたでしょうか。もちろん、大々的に「キリスト教のカンファレンスがあります!」と宣伝したわけではないのですから、そこにキリスト者が大勢いたということを岐阜の人たちは知らないわけですけれども、もしも知っていて、私たちの様子を見ていたら、岐阜の人たちはどう思ったでしょう。キリスト教の人が沢山来てくれて、なんだかとても魅力を感じる人たちで、この人たちの信じる福音というものを聞いてみたいな、と思うような在り方を、果たして私たちはしていたでしょうか。
ひとりの参加者としての悔い改めをこめて言いますが、そんなことはないと思うのです。
少なくとも私はそこに住む人のためには何の愛の行為もしませんでした。何をしたら良いのかもわかりませんでした。帰宅後、長良川の掃除でも福祉施設への募金でもなんでもいいからすればよかった、と思いました。そして、そんなありきたりな発想しかできない自分の限界を感じました。
もしも各地にある教会がそういう状態だったら、地域の人が「ここに教会があってよかったな」と思えるような在り方をしていなかったら、そういう教会に人が来なくなるのは当たり前のことだと思うのです。
JCE7は極めて内向きな会合だったと思っています。「内輪ノリ」です。キリスト教界という「内輪」であるだけではなく、ごくごく限られた恵まれた人たちだけの「内輪ノリ」でした。
ここでつけ加えておきたいのは私は「内輪ノリ」を決して悪いものだと思っていない、ということです。冒頭で述べたように、私の今回の一番の目的はこういう機会でもなければ会えない友達に会いたいというものでした。神学校を卒業してからなかなか会えない友達や先生に会いたい、高校時代の友達やSNSでつながっている友達に会いたい、そういう気持ちで行って、たっぷり「内輪ノリ」を満喫し、リフレッシュしてきました。そして、その「内輪ノリ」は私を癒し、元気を与えてくれました。
でも、忘れてはいけないのは「これは内輪ノリである」という自覚を持つということだと思うのです。そこにいない人がいる、ということを決して忘れないことだと思うのです。あちこちで発信していますが、私は初日の賛美の時間に、いろいろな地域・教団から集まっている人たちと一緒に賛美しながら「なんて神の国っぽいんだろう」と思いました。そしてすぐに猛烈な恥ずかしさに襲われました。ここにいない人がいる、ということを思い出したからです。住む場所すらなく路上生活を余儀なくさせられている人や、重度の身体障がいをもって伏せっている人はそこにはいません。家族の介護がある人、仕事が休めない人、家族や教会の理解を得られなかった人、人が集まる場所に行くことにトラウマを抱えていたり教会という組織に傷つけられた経験のある人も、ここには来られなかったでしょう。そういう状況で、ここにいられない人に目を向けることもせず、安易に「神の国っぽい」と思う自分が恥ずかしくて仕方なくなりました。
どんな集まりにも「参加資格」があります。今回経済的格差をなくすために参加費無料、交通費支給にしたらどうなっていたでしょう。何もできなかったはずです。平日に休めない人の為に休日開催にしていたら、今度は休日に来ることのできない人が来られなくなっています。だから、どこかで線を引いて「参加資格」を設定すること自体は必要なことです。
それでもなお、皆さんと一緒に「ここにいない人がいる」ということに目を向けたいと思うのは、ともに神の国との遠さを嘆きたいからです。嘆きながら限界の中で勇気を出して半歩歩み出し、それでも半歩であることを自覚しながら、次の半歩のためにともに心を合わせたいからです。
私はもっと嘆きたかったです。教会の危機であるなら、何が危機であるのかを分かち合い、みんなで嘆きたかった。一緒に福音派の現状に心痛めて、その痛みを原動力にして前に進みたかった。
今回の会議では原則「さん」付け、50歳未満の若手が登壇者として選ばれていました。権力構造と向き合い、それを乗り越えていく意図があったのだと想像します。けれども、そういう説明はありませんでした。キリスト教界にある「権力構造」をともに嘆くということはできず、結果「さん」付け、若手という新しさという表面だけが印象に残りました。
(なお、あちこちで敬称の話をしてきたにもかかわらず、私は敬称を「さん」付けにすることについては、ある程度好意的に見ているけれどあまり本質的ではないと思っています。それよりも「ここでは『さん』付けで」みたいなアナウンスが苦手です。少なくともオフィシャルな敬称は教職者であるか否かやセクシュアリティに関わらず全員同じである方が良いな、とは思っていますが)
そしてその新しさは、敬称を何にしようと依然権力構造はあるということ、若手と言っても選ばれた若手であること、当然のようにそこに女性はほとんどいなかったこと、前に進んだと言っても半歩に過ぎないということから目を逸らさせてしまったのではないかと思うのです。そういう本質的なことにこそ目を向けてみんなで嘆きたかったのに、と思うのです。
本質に目を向けなければ、権力構造を乗り越えようとした人たちの努力をパフォーマンスにしてしまうと思うのです。その人たちの努力も覚悟も犠牲も全部無駄にしてしまうのではないかと思うのです。かれらはパフォーマンスをしたのではなく、権力構造に立ち向かったのだと思うのです。だから、その挑戦を受けて、私たちはさらに前に進もうとしなければならないと思うのです。

②キリストのからだ
そして、教会の危機を認識するためにはキリストのからだがどのようなものか認識する必要があると思うのです。どのように今の教会がキリストのからだから離れているのかです。他の人はどう思っているんだろう、ととても気になります。教会とは何か、の答えが、教会の危機を解決する道を示すからです。
私は、イエス・キリストはこの地に足をつけてともに痛みともに喜びぐちゃぐちゃになりながら生きたと思っています。そのために傷つき、痛み、いのちまで捨ててしまった。私はフリッツ・アイヘンバーグの『炊き出しの列に並ぶイエス』という版画が大好きです。そこには華々しく力強いイエスさまの姿はありません。炊き出しの列に寒そうに並んでいるイエスさま。けれども、その姿から、イエスさまがひとりの人間として私たちと全く同じように地に足をつけて生きてくださっていることを感じます。私は、それが教会のあるべき姿だと思っています。
教会はそうなっているのか、と思います。そういう教会もあると思います。けれども、残念ながらすべての教会がそうではないのではないか、まだまだイエスさまの姿とは程遠いと思っています。
もっともっとこの世界の痛み悲しみとともにありたい。もっともっとこの世界の喜び楽しみとともにありたい。そう思うのです。もっと教会がイエスさまの生きざまに近づくためにはどうしたら良いんだろうと思います。私にはまったく良いアイディアは浮かびません。だから、沢山の人とああでもないこうでもないと語り合うことができたらと思うのです。

③福音
そして、キリストのからだを突き詰めると「福音」にいきつきます。伝道とは福音を広げることであるはずです。私たちは何を世界に広げていくべきなのでしょうか。
私はふたつの分科会を楽しみにJCE7に参加しました。「もしイエスさまが市長だったら」と「平和」です。ひとつめの分科会では福音に生きる人を目の当たりにして涙が出ました。ふたつめの分科会では福音に生きる人を目の当たりにして笑顔になりました。
福音に生きる人たちを見ながら教会も捨てたもんじゃない、とちょっと偉そうな感想を持ちました。
その人たちは言葉で伝える以上に生き様で福音を体現していました。
それならあなたの考える福音は?と問われるかもしれないけれど、その時は、問うてくれた人と一緒に語り合いたいと思います。
福音って、何でしょうかね。


最後に、どうしてそういうことを全体で取り上げることができなかったのか、と思います。
危険だからかな、と思います。神の国は危険だから、イエス・キリストは危険だからかな、と。ボンヘッファーは安全と平和は違う、と言いました。

「平和」は「安全」の反対なのである。安全を求めるということは、相手に対する不信感を持つということである。そしてこの不信感が再び戦争を引き起こすのである。安全を求めるということは、自分自身を守りたいということである。
ボンヘッファー『主のよき力に守られて』

内輪ノリで楽しむことはできても、まだ私たちは本当に信頼関係の中で平和という冒険に踏み込んでいく勇気を持てないんじゃないかと思うのです。かくいう私も怖いと思います。教会の危機って何だと思う?キリストのからだって?福音って?そういうことを仲の良い人たちと少し話しました。でも、仲の良い人と喋るのが精いっぱいです。背景も神学的立場もわからない人と話すのは怖い。「安全」ではないと思います。
でもいつか福音派という団体が、福音派という団体を超えて世界中の教会が、一緒に平和という冒険に踏み出す日が来たら、その日には「教会の危機」なんてものはなくなるんじゃないかと思うのです。

※2日目までの感想は私のフルネームで検索していただけたら動画が出てくると思います。