未来の矢印(2024年冬学校礼拝)

主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。(エレミヤ書29章10ー14節)

【2月8日学校礼拝で高校3年生向けに語ったメッセージです。だいたい1か月に1回くらいのペースで語ってはいるのですが、今日は4月から教えた高校3年生に語る最後の礼拝。ということでちょっと特別です。】


おはようございます。
皆さんの前でお話するのは最後になるかなと思います。
最後のリアクションペーパーにそれぞれ短くコメントを返しているので、後で確認してくれたらなと思っています。

私は皆さんと出会えて良かったなぁと思っていますし、一人一人のことがすごく大切で大好きなんですけれども、でも 1 年間どうしてもちょっとなあと思っていたことがありました。それは週 1 時間の授業で一人一人をちゃんと見るということはできなかったし、多分私の力では無理だろうなと思っていたということなんです。
どうしても「このクラスはこういうクラス」とまとめて見てしまったり、あるいは目立つ子、話しかけてくれる子とばかり、やり取りしてしまったり。もちろん話しかけてくれたり、質問してくれたりすることは、私にとってすごく嬉しいことです。その一方で、目立たずにコツコツ真面目にやっている人のことはあんまりきちんと見てあげられていないなと思いながら 1 年間過ごしていました。

なのでその罪滅ぼしではないですけれども、最後くらいは一人一人をちゃんと見て一人一人のことを祈りながら送り出したいなと思って。毎回最後のリアクションペーパーだけはお返事を書こうと決めています。といっても大したことは書いてなくて「 1 年間ありがとう」くらいしか書いてないんですけれども。それでも私なりの祈りなので見てくれたら嬉しいなと思っています。

一人一人にちっちゃなコメントを返しながら、この人はどんな風に卒業後、どんな風に生きていくのかなって考えていました。

今日の礼拝のお話のタイトルは未来の矢印とつけました。皆さんの未来はどんな未来でしょうか? 楽しいことだけが待っている人はいないと思います。
大変なことしんどいことがあると思いますし、今もしんどい中にいる人もいると思います。勉強だったり、家族や友達との関係だったり、プライベートな事情だったりで辛いな苦しいなと思っている人もいるんじゃないかなと思います。

人生にはそれなりに大変なこと、しんどいことがあります。けれども、そんな時に皆さんはどんな言葉に励まされるでしょうか? 感想を読んでいると聖書の授業や礼拝ですごく励まされました。って書いてくれている人もいて嬉しいなと思っています。
でも、一方で聖書の授業や礼拝こそ嫌だった。そういう人もいるんじゃないかなと思うんです。聖書にはいろいろ前向きなことが書いてあるけれども、辛くて苦しくて、しんどい時にあんまり前向きな言葉をかけられ続けると余計苦しくなってしまう人もいるんじゃないかなと思います。こんなの綺麗事じゃないかって思う時もあると思うんです。
私はというと結構辛い時にポジティブな言葉を聞きたくないタイプなので、聖書を読みながら日々悪態をついてるんですね。こんな信じられるかって綺麗事だって思いながら読んでるんです。

そういう話をすると、じゃあ先生キリスト教やめたらいいんじゃないですか?ってよく言われるんですけれども、私はやめないんですね。聖書も読み続けるんです。悪態をつきながら読み続けます。なんでかというと、人間にはどんなにしんどくても夢が必要な時があるんじゃないかなと思うからです。

授業でキング牧師の I have a dreamを読みました。授業の繰り返しになりますけれども、私がすごく好きなフレーズを読みたいと思います。

ミシシッピ州へ帰っていこう、アラバマ州へ帰っていこう、サウスカロライナ州へ帰っていこう、ジョージア州へ帰っていこう、ルイジアナ州へ帰っていこう、そして北部の都市のスラム街やゲットーへ帰っていこう。きっとこの状況は変えることができるし、変わるだろうということを信じて。絶望の谷間でもがくことをやめよう。友よ、今日私は皆さんに言っておきたい。
われわれは今日も明日も困難に直面するが、それでも私には夢がある。
マーティン・ルーサー・キング「私には夢がある」より

私が人間にはそれでも夢が必要だと思うのは、私たちがそれぞれの場所に帰っていくからです。
私たちはそれぞれの場所で生きていかなきゃいけないからです。今日も明日も困難に直面するけれども、それでも生きていかなきゃいけない。だから、生きていくための原動力が必要だと思っています。私たちをどこかからどこかへ向かわせる矢印が必要だと思っています。

人間は無意味なことには耐えられません。授業で話したかなと思いますけれども、無意味なことをさせる拷問っていうのは昔からいろいろあります。穴を掘らせて埋めさせて掘らせて埋めさせてみたいな。
自分が何をしているのかわからなくなったら、何のためにそれをやってるのかわからなくなったら、人間は正気を保つことができなくなってしまうからです。
そんなことを中学校の礼拝で話したら理科の先生が植物もそうですって言ってました。生きているものは何かの目的がないと生き続けることができないわけです。だから、私たちには目的地が必要です。

今日の聖書の箇所は、イスラエルの人たちが土地を奪われ、大切にしていた神殿を壊され、文化を失ったバビロン捕囚という時代の人々への預言者エレミヤの言葉です。すべてを奪われてもそれでもあなたたちには将来と希望があるからそこに向かって生きていきなさいと預言者が励ました言葉です。

そんな目的地をもって生きて行ってほしいんです。
皆さんの目的地は明確ではなくてもいいかもしれません。
なんとなくこういう人になりたい。なんとなくこういう未来があったらいいな。なんとなくこういうことに向かって努力していこう。それでもいいんじゃないかなと思います。どっちの方向に歩いていけばいいのかわかれば生きていけるから。
そして、その矢印は日々の選択にも現れてきます。何を大切にしてどこに行こうとしているかが、私たちの日常生活で起こる出来事に対して選択肢を与えてくれます。

誰と出会い、誰に助けられ、誰とぶつかり、どんな試練を乗り越えてきたかが私たちの矢印を作ります。
皆さんにとって矢印を作ってくれるような人との出会いはあったでしょう。こんな人になりたいなと憧れたり、あるいは反面教師にしたり。そんな人はいたでしょうか? 聖書の授業や礼拝はそういう矢印を作ってもらう時間だと思っていました。聖書やキリスト教の考え方に触れていいなと思ったものは、皆さんの矢印に取り入れ、ちょっと違うなと思ったら自分なりの矢印を考えて。

私の矢印を作ってくれた人を一人をあげようと思ったんですけれども、あまりにもたくさんいすぎました。そしてその人たちの話は礼拝でしてるから、固有名詞をあげなくてもいいかなと思ったんですけれども、強いて一人あげるなら、イエス・キリストかなと思いました。
この人かっこいいなって思うんです。かっこよく生きるのが私の矢印です。
人を愛せる人ってかっこいいなと思います。弱い人の味方で居続ける人や命をかけて大切なものを守る人、自分を大きく見せずにへりくだることのできる人はかっこいいなと思っています。
そして、そういうふうにかっこよく生きられるんだったら少々つらいことがあっても傷だらけで天国に行ったらイエス・キリストっぽくてかっこいいなと思いながら、そうやって私は生きています。

皆さんの矢印はどこに向かっているでしょうか? 皆さんが今思い浮かべる人は誰でしょう? これからもたくさんの出会いをしながら、皆さんの矢印をさらに豊かにしていってくれたら嬉しいなと思いますし、矢印を築いていくその過程でこの学校で学んだこと、出会った人が何かヒントになったら嬉しいなと思っています。

皆さんのこれからのために心からお祈りしています。ありがとうございました。

わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。(エレミヤ書29章11節)


※不定期更新中