どこかに立つこと

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
マタイの福音書5章9節

私は私に「常にもっとも弱くされている人の側に立つ」というルールを強いています。それが私の信仰の表現であり、「ありえないほどのスケールで祝福を広げる」ことと深く関係していると思っているからです。
これは私が私に強いていることであって、すべてのキリスト者がそうすべきとは思っていません。
いつそう決めたのかは覚えていませんが、方向転換のきっかけになったのはデズモント・ツツの「ゾウがネズミの尻尾を踏みつけているときに中立を主張してもネズミはそれを中立とは思わない」(強者と弱者がいて不公正な状況がある場合に中立であることは強者の側に与することになる)という言葉だったと思います。その言葉と出会ってすぐにそう決めたわけではありませんでした。多分私自身が弱者の側に置かれた経験、その時に助けてほしかったと思った経験も大きく影響していると思うし、そういう中でずっとどうしたら平和に向かっていけるのか考えていたということもあります。平和の実現のためには世界にあるずれた現実と向き合い、闘っていかなければいけない、そうやって「ありえないほどのスケールで」祝福が広がっていくのではないか、そう思ったからです。

ただ、決めたはいいもののすごく悩みます。
誰が強者で誰が弱者かはっきりしている場合は簡単です。でも、必ずしもそうではありません。複雑な要因が絡み合い、様々な背景があり、ひとつの集団の中にも力関係があり、また時にそうしようとしている私自身が権威の側にいることがある。
また、私からは私から見える景色しか見えません。どんなに情報を集めようと思っても、その情報は「私が」集めるものなので偏ります。どんなに聖書を読んでも、その解釈は「私が」するものなので偏ります。生身の人間と触れ合おうにも、すべての人と出会うことはできません。

それでも、人は必ずどこかに立っていると思っています。
私たちはどこかに立つ。立たざるを得ない。「ちょっとこの件については保留で」ということもできるけれど、それでもそう言いながら私たちはどこかに立っています。

だから私は、私のできる精一杯で「常にもっとも弱くされている人の側に立つ」を選び続けようとしています。

私の夢は「ありえないほどのスケールで祝福を広げる」です。
聖書にはありえないほどの祝福に満ちた世界が描かれています。それは時には「平和」と呼ばれ、時に「神の国」と呼ばれ、「新しい天と新しい地」と呼ばれます。預言書が喜ばしいイメージを語り、福音書では具体的にイエス・キリストの周りに表現されています。私はその祝福を「いのち」という言葉で表現します。
聖書は豊かないのちの世界を目指している。私がいま置かれている場所でいのちのためにできることは何か、イエス・キリストはどうやっていのちと向き合ってきたか、そんなことを考えています。
世界中に沢山の傷ついたいのちがある、脅かされているいのちがある現状の中で、傷つけ脅かしている側もいのちであるという現状の中で、模範解答なんかわからない。でも、いのちを目指していく格闘が、私がこの世界でやるべきことなんだと思ってもがいています。そして、それは時に暴力に対して声を上げるという実践にもつながると思っています。私は声を上げたり誰かと議論したりするのは好きではありません(意外でしょ? でも、だからこのブログにはコメント欄がないんです笑)。でも、いのちを目指していく歩みはそういう歩みなんだと思っています。

そして、私が格闘しているように、やっぱり他の人も必死でどこかに立っているのだとも思います。その立ち位置は、私と同じとは限りません。でも、だれもが間違う可能性をはらみながら、悩みながらそれぞれの場所に立っています。私はそのことを尊重できる人になりたいと思っています。でも、思っているだけです。実践はできていません。

私には限界があり、私が選んで立っているこの場所がとても暴力的で抑圧的な場所である可能性は常にあります。
けれども、私はある程度の確信を持ってその場所に立っています。自分なりに一生懸命考えて、それなりの根拠を持って立っています。だからこそ、心のどこかに「私が正しい」という思いはあると思うんです。私が思う正しさに反する場所に立っている人を見たとき、やっぱり私の心はざわつきます。
ただ、たとえ心がざわついても言っていいことといけないことはあると思います。どんなに批判すべき(と自分が思う)相手であっても「異端」「背教」「クリスチャンではない」「普通は」そういう言葉で相手を決めつけ相手の尊厳を傷つけてはいけないと思うんです。
そういう表現を見かけると悲しくなります。ただ、その悲しさは「私ならとてもあんなことは言えない」という悲しさではなく、私の中にも同じ誘惑があることへの悲しみも含む悲しさです。言ってはいけないという言葉を、私は理性で言わないようにしているだけで(正直に言うとごく少数の仲間内ではそれに近いことを言ってしまうことはあります…)自分と異なる立場の人を断罪し切り捨てたいという誘惑は常にあります。

また、私のキャパシティーの問題もあります。ツツは「平和をつくりたいなら友達ではなく敵と話すべき」とも言っていますが、ちょっと今のところ私にはそれは難しいです。でも、自分が壊れてしまうほどのことはしなくていいんじゃないかなと言い訳しつつ、私は私のお付き合いできる範囲の人とお付き合いしています。(それでいいのかはわかっていません)

ただ、それでも私は間違いながら、ぶつかりながら、痛みもがきながら他の人と一緒に平和を追い求めていきたいと思っています。
いのち(平和、神の国、新しい天と新しい地)を目指していく歩みは冒険であり、冒険には危険も恐れも葛藤もつきものだと思っているからです。