距離

イエス・キリストの受肉は、単に十字架で死なれるために神が人となったということではなく、十字架の死によって贖われたもの、その救いを完成するための模範として先取られた神の創造の歴史の完成のためなのである。
濱和弘『人生のすべての物語を新しく』(教文館、2020年)159頁

こんなにもあなたに会いたいガリラヤの湖畔がこんなにこんなに遠い/美好ゆか

今日は最近の私の悔い改めについての記事です。

前回の記事にこんな文章を書きました。


私たちが第一に見るべきなのはイエス・キリストの生き様だと思うのです。イエス・キリストの生き様に自分の生き様を重ねていくこと、そこから反れようとする自分の中の「罪」と戦うことだと思うのです。
《中略》
倫理的課題と向き合う時、私たちはどこに立っているでしょうか。私たちの立ち位置はイエス・キリストに近いでしょうか。遠いでしょうか。聖書を読むとき、私たちにはそのことが問われていると思うのです。
そして、遠いのであれば、その遠さこそ私たちの「罪」だと思うのです。

個人的な人との関わりの中で、自分のイエス・キリストからの遠さを思わせる出来事がありました。私が倫理を考える上で大切にしているのはデズモント・ツツの「不当なことが起きたときに中立を主張するのは、抑圧する側を選んだことを意味する。ゾウがネズミの尻尾を踏んでいるときに中立だと言ってもネズミはあなたを決して中立と思わないだろう」という言葉です。できているかは置いておいて、社会問題については私はネズミの側に立ち続けようとしてきたつもりです。けれども、自分のごく身近な個人的な事柄については、私は中立でい続けようとしていた気がします。

私は(たぶん)プライベートでは穏やかな性格です。個人的な付き合いのある人に対して腹を立てることもとても少ないように思います。(「由佳と話しているとロボットと話しているみたいだ」と言われたこともあるのでそれはそれで問題だと思うのですが)

人と争うより、穏やかな関係を築きたい。どんな人の物語にもまず耳を傾けたい。その思い自体は間違っていないと思うのですが、自分の身近で加害行為が起こった時もへらへら笑ってやり過ごしてしまっている。そしてそれはネズミの側から見たら明らかに「中立」ではなく加害側に立つことだと気づかされたのです。

そんなときに読んでいたのがヨエル書でした。


主は言われる。

「今こそ、心からわたしに立ち返れ

 断食し、泣き悲しんで。

 衣を裂くのではなく

 お前たちの心を引き裂け。」

ヨエル書2:12-13


悔い改めよう、と思うのですが、どこに向かって方向転換したら良いのかわからなくなりました。

小さくされたものの側に立つこと、この世の不正に声を上げること、そして加害者を赦し和解すること…そういうことのイメージが私の中で固まっていないということに気づいたのです。

というわけで今はイエス・キリストの生きざまと徹底的に向き合いたいと思っています。ただ完全な「かたち」として生きられた方の生き様に自分自身を重ねていきたいと思うのです。

イエスさまととの良い交わりができるようお祈りいただけると嬉しいです。

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