弱い人へ

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「その行為について罪か罪でないか聖書を開く前に、まず目の前の人と向き合おう」

そんな発言を聞くことがよくあります。(特に、私が向き合っているセクシュアリティ関係のことについて)私はこの言葉に99パーセント同意します。「まず目の前の人と向き合う」それができたらベストだと思うし、「まず目の前の人と向き合う」ことは福音書に描かれるイエスさまの姿に近いと思っています。でも、100パーセントの同意ができません。それは、それはそうなんだけど、それができない弱い人がいるからです。そして、何より私自身がそれができない弱い人だからです。
私には理屈で納得できないと前に進めないという弱さがあります。そしてそれが信仰と結びつくと、聖書からはっきりした確信を持てないと身動きがとれなくなってしまいます。それは一見信仰的なことのようだけれど、私の場合は結局聖書からお墨付きが欲しい、「あなたは正しい」と言ってほしい、という身勝手な気持ちが混ざっていると思います。「あなたは正しい」ではなく「あなたは正しくない」ということを受け止めるのが信仰なのだ、と頭ではわかっていても、やはり正しくありたいと思ってしまいます、私は。
私の友人の中には頭でっかちにならなくても目の前の人の痛みに心を寄せられる人がいます。私がめちゃくちゃ(というのは言い過ぎかもしれませんが)聖書を読んで本を読んで勉強してやっと獲得したことを、いとも簡単に(という風に見えます)手に入れてしまう人がいます。
正直に言うと私はそういう人がうらやましいです。なんて信仰のセンスがいいんだろう、神のかたちとしてまっすぐに生きているんだろう、神の国のど真ん中を生きているんだろう、そう思います。
でも、言い訳めいてしまうけれど私は私です。
そして、私のような人が沢山いるんじゃないかと思うんです。「目の前の人の痛みに心を寄せたい。でも聖書が…」そうやって悩んでいる弱い人が沢山いるんじゃないかと思うんです。
弱さを克服するのがベストだと思います。でも、一足飛びにベストにはいけないという人もいるかもしれない。そんな人のためにベターな道を提案したいと思います。

私の提案するベターな道は聖書を読むことです。
「聖書を開く前に~」というベストに対する提案としては不自然に思われる方もおられるかもしれませんが、私のように聖書を読んで納得しなければ進めない弱い人には、聖書を読むのが一番の解決法な気がしています。聖書がなんて言っているか気になって気になって仕方ない、聖書からお墨付きがほしい、正しくないことをするのが怖い…それなら、聖書から目を背けて自分の気持ちに蓋をして物事を曖昧にするよりもとことん聖書と向き合ってしまった方がいいのではないかと思うんです。

ただし、聖書には読み方があります。
聖書をどのように読むかが私たちの信仰の歩みを決めていきます。
倫理的な課題を前にしたときに私たちがとりがちな読み方は「これは罪かどうか」です。罪か罪でないかのお墨付きがもらえれば安心できるかもしれません。そして、個人の歩みにおいて何が神さまのみこころにかなうかを考えることには意味があると思います。でも、それが第一の関心になってしまう読み方では、聖書の持つ豊かなメッセージを受け取り損ねてしまうと私は思っています。

私が提案したいベターはイエス・キリストを第一にして読むということと神の国を第一にして読むということです。

①イエス・キリストを第一にして読む
御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。
コロサイ人への手紙1:15

イエス・キリストは神のかたちであり、私たちは神のかたちとして造られ、それを損なった存在です。

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
コリント人への手紙第二3:18

私たちの「救い」とは完全な神のかたちであるイエス・キリストと同じ姿に変えられていくことです。

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。……
ヘブル人への手紙12:2

私たちが第一に見るべきなのはイエス・キリストの生き様だと思うのです。イエス・キリストの生き様に自分の生き様を重ねていくこと、そこから反れようとする自分の中の「罪」と戦うことだと思うのです。
神さまは目に見えません。でも、イエス・キリストの生き様は具体的です。この方が「罪人」と烙印を押され排除され神のかたちとして尊重されることなく生きていた人々とどのように関わったか、それが、私たちが人と関わるときの道しるべになると思うのです。
イエス・キリストはぬるま湯のような優しいだけの方ではありませんでした。(ぬるま湯のような人が優しい人かどうかは置いておいて)人を見下し排除し悦に入っている宗教的強者に対して、人に痛み苦しみを与える現実に対して激しい憤りをあらわにされました。
倫理的課題と向き合う時、私たちはどこに立っているでしょうか。私たちの立ち位置はイエス・キリストに近いでしょうか。遠いでしょうか。聖書を読むとき、私たちにはそのことが問われていると思うのです。
そして、遠いのであれば、その遠さこそ私たちの「罪」だと思うのです。

②神の国を第一にして読む
「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
マルコの福音書1:15

マルコ福音書のイエス・キリストの第一声は神の国の到来と、神の国にふさわしい生き方への招きでした。イエス・キリストの宣教の中心は「神の国」だと私は理解しています。

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
マタイの福音書6:33

イエス・キリストが神の国を広げていったように、私たちにも神の国を求めるように言われています。
それでは、神の国とは何でしょうか。
旧新約聖書には至る所に神の国が描かれています。「神の国」という言葉が出てこなくても、神の国をあらわす表現はたくさん出てきます。
聖書を全部読んで、神の国のヒントを見つけていくことは大事なことです。
でも、いきなり全部読まなくても福音書にはわかりやすく具体的な「神の国」が描かれています。
私はたまに「神の国」を「イエスさまのまわり」と言い換えています。
イエスさまのまわりがどんな空間だったか、それがよくあらわれているエピソードはマルコ10章のエピソードだと思います。

イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔をしてはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。
マルコの福音書10:14-16

神の国は当時取るに足りないもの、神の国から排除されていると思われていたものである子どもを招くものでした。そして、そこに入ってくるものはイエスさまに抱きしめられる。そういう場所でした。
教会は、そういう場所になっているでしょうか。「あなたの存在をまるごと受け止めるよ」と人を招き、その人たちを抱きしめる場所になっているでしょうか。

キリスト教倫理はキリスト者の人格形成と信仰共同体の形成に向かっていくものだと私は考えています。
人格形成においては①イエス・キリストを第一に、共同体形成においては②神の国を第一に、読んでいくべきではないかと思うのです。

そして、私たちはイエス・キリストと神の国のイメージを目指していきます。
けれども、その時ひとつ問題が発生します。
それは、必ずしもイエス・キリストと神の国のイメージに合致するわけではないように見える箇所と出会うということです。
信仰の違う民族を皆殺しにすることはイエス・キリストのイメージに合致するでしょうか。障害者(「障がい者」という表記もありますが私は社会がその人に生きづらさを与えるという理由で「障害者」表記を使います)を共同体から排除することは神の国のイメージに合致するでしょうか。
女性を強姦したことが女性本人ではなく女性の所有者たる父親への罪になるという考え方は? 奴隷制を認めるような記述は? サタンの気まぐれで子どもを失った父親が別の子どもを与えられたことをハッピーエンドとするような書物は?
どれも長い間多くの神学者が悩み、研究し、それぞれに答えを出してきた箇所です。
私たちはそれをなぞって簡単に納得することもできます。

でも、私は敢えてそのような箇所に苦しむことを提案したいのです。
私たちがそれらの箇所を読むときに感じる痛みよりさらに深い痛みを「当事者」と呼ばれる人たちは感じてきました。
神さまはなんでこんなことを…そう思いながら、読んできた。そして、教会であっさりと「聖書には○○と書いてある」と言われ切り捨てられてきたのです。

もっと痛みながら聖書を読みませんか?
聖書の中で神さまの愛はσπλαγχνίζομαι (はらわたする)という動詞であらわされます。人間のどうすることもできない苦しみの現実を目の当たりにして神さまははらわたがよじれるような痛みを感じてくださった。簡単に答えを出すのではなく、徹底的に痛んでくださったのです。

私は性をグラデーションととらえ、男性と女性の間の垣根が取り払われようとしている現実は「聖書的」ではないと危機感を感じ、セクシュアリティの研究を始めました。
「当事者」と呼ばれる人たちとの関わりは避けて通れないと思い、「当事者」と呼ばれる人たちと関わり始めました。
その方々を心の中で「罪びと」や「病人」だと決めつけながら。
でも、その方々と関わり、友達として認めていただく中で、かれらの友達である自分と聖書を神のことばと信じる自分の間で引き裂かれるような痛みを覚えました。本当に神さまはこのひとたちを「罪びと」だと切り捨てるのか。聖書ってそんな残酷な書物なのか。
でも、私には聖書や信仰を捨てることはできなかった。だから勉強しました。読める限りの文献でひとつひとつの聖書箇所と向き合いました。理解できること、できないこと、たくさんありました。でも、その中で聖書は、そして神さまはいわゆるLGBTQを「罪びと」だとは言っていない、という結論に至りました。
そしてアライ的な存在になりました。(話の本筋ではないけれど一応カミングアウトしておくと私はL・G・B・T以外のセクシュアルマイノリティです。ほかにもいろいろな理由があって自分を「アライ」とは名乗りません。「アライに限りなく近いセクマイ」が私のセクシュアリティです)聖書から確信を得たことでしか私は前に進めませんでした。
友達を「罪びと」や「病人」だと決めつけながら関わってきたことは私にとっては最悪の歴史です。正当化するつもりはありません。でも、弱い私にはどうしてもそれしかできなかった。聖書が何と言っているか自分なりの答えを見つけるまで立場を決められなかったのです。
私は引き裂かれるような痛みを覚えました。人の痛みを比べることあまりしてはいけないことだと思います。でも、あえてそれをさせていただくなら、私の痛みなんて「当事者」として傷ついてきた人の痛みに比べたらたいしたことないのです。だから、これを読んでいる「弱い人」も大丈夫です。聖書を痛みを覚えながら読むといっても、その程度の痛みにすぎません。それに、もしもこれを読んでおられる方が聖書を神のことばと信じている方だとしたら、痛みに耐えられるはずです。だって、私たちがどんなに苦しもうが痛もうが疑おうが、聖書はびくともしないという信仰に立てるからです。いつか神さまが答えを教えてくれると信じられるからです。もしかしたら地上の生涯を終えた後かもしれないけれど。

私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。
ピリピ人への手紙4:13

弱い人へ。
私たちは弱いけれど、私たちを強くしてくださる方がいます。だから安心して痛みましょう。苦しみましょう。葛藤しましょう。そして、私たちとともに痛んでくださったイエス・キリストを目指し、すべての痛みが解決される神の国を目指していきましょう。

私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。
「見よ、神の幕屋が人ともにある。
 神は人々とともに住み、人々は神の民となる。
 神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
 神は彼らの目から
 涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
 もはや死はなく、
 悲しみも、叫び声も、苦しみもない。
 以前のものが過ぎ去ったからである。」
黙示録21:3-4