触の物語 ーいのちに触れていのちに戻る―

芳賀力『大いなる物語の始まり』を参考に、とあるところで書いた私の信仰を物語にまとめたものです。長いですがお読みいただけたら嬉しいです。

「触の物語 -いのちに触れていのちに戻るー」

 

  私はどこへ行けるでしょう。

  あなたの御霊から離れて。

  どこへ逃れられるでしょう。

  あなたの御霊を離れて。

  たとえ私が天に上っても

  そこにあなたはおられ

  私がよみに床を設けても

  そこにあなたはおられます。

  私が暁の翼を駆って

  海の果てに住んでも

  そこでもあなたの御手が私を導き

  あなたの右の手が私を捕らえます。

  たとえ私が「おお闇よ 私をおおえ。

  私の周りの光よ 夜となれ」と言っても

  あなたにとっては闇も暗くなく

  夜は昼のように明るいのです。

  暗闇も光も同じことです。   (詩編139:712

 

 彼は、生まれた時から手探りだった。物心ついた時から、彼は触れることで世界を認識していた。けれども、触れたものが必ずしも彼に温もりをもたらしてくれたわけではない。世界が危険で彼を傷つけ得るものであることもまた、彼は触れることで認識していった。そして、触れることのできないものもあった。近くにいて声は聞こえるのに、どんなに手を伸ばしても触れることのできない存在がいた。声だけは一方的に届いてくる。その声は彼を「罪人」と呼んだ。「罪人」には触れたくないのだと、声ははっきりと言った。罪人は神の祝福を受けられないのだと彼は両親に聞かされて育っていた。両親は彼を愛してくれた。だからこそ、彼は両親に迷惑をかけないようにと家を出、物乞いをして生活するようになった。彼に触れる者はいなくなった。

彼はやがて世界に触れることを諦めるようになった。神にすら見捨てられた存在なのだとしたら、世界を知ろうとしても、世界と関わろうとしても、何をしても無駄なのだから。自分がここにいることにすら誰にも気づいてほしくない。でも、生きるためには施しを受ける以外ない。目立たないように、でも、飢え死にしない程度には目立つように、それだけを考えて生きてきた。

 ある日、いつものように無遠慮な声が聞こえてきた。

 

「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」

 

 ああまただ。声はすぐ近くで聞こえてくる。でも、同時にとても遠くから聞こえる。この声の主に触れることは決してない。触れても傷つくだけだ。そして、声の主が「先生」と呼ぶ人物もそうだろう。彼は耳を閉ざした。

その時だった。誰かが彼の目蓋に触れた。何かを塗られた気がする。誰かが触れてくれたのだ。彼の耳元で声がした。

 

「行って、シロアムの池で洗いなさい」……   (ヨハネの福音書9:6

 

 シロアムとは「遣わされた者」という意味だ。彼は、幼い頃、両親に聞かされていた物語を思い出す。

 

私は言った。

「ああ、私は滅んでしまう。

   この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。

   しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」

すると、私のもとにセラフィムのひとりが飛んで来た。その手には、祭壇の上から火ばさみで取った、燃えさかる炭があった。彼は私の口にそれを触れさせて言った。

「見よ。これがあなたの唇に触れたので、

   あなたの咎は取り除かれ、

   あなたの罪も赦された。」

私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」   (イザヤ書6:58

 

 ずっと神の祝福の外にいると思っていた。でも、両親から聞かされた神はそのような方だったか。神の前に立つことなどできない者に触れてくださり、触れることによって生かしてくださる方。

 

  見よ。主の手が短くて救えないのではない。

  その耳が遠くて聞こえないのではない。

  むしろ、あなたがたの咎が、

  あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、

  あなたがたの罪が御顔を隠させ、

  聞いてくださらないようにしたのだ。   (イザヤ書59:12

 

 「罪」とは必ずしも本人が犯した悪事を指すのではない。彼を神から遠ざける「咎」「罪」は、かれ自身を世界から遠ざけようとする声だった。けれども、彼に触れてくれる手に出会い、彼は彼を「罪人」と蔑む声に耳を傾けることはやめよう、と決めた。「行って、シロアムの池で洗いなさい」というあたたかい声だけを聴こう、と思った。

 彼は再び、手探りで道を探し始めた。シロアムの手前にはごつごつした石が沢山あるということは知っていた。けれども、触れてもらった手の、塗られた泥の、耳元で呼びかける声のあたたかさを思って、彼はシロアムまで一心に歩いた。そして冷たい水で目を洗った。瞼を開けると、まず飛び込んできたのはシロアムの池の澄んだ水色だった。そして池の向こうの樹々、鳥たち、人々。それが何かは彼にはまだわからなかった。けれども、これが「世界」なのだとわかった。

 彼は振り返った。あのあたたかな声の主は、もうそこにはいなかった。

 

***

 

「先生。何をされているのですか」

 

 かれの言葉は、師には届いていないようだった。師はしゃがみこんで地面に唾を吐き、土をこねて泥をつくった。まるで泥で遊んでいる子どものようだった。そして、師の姿はただ子どものように見えるだけでなく、かれが幼いころから聞かされてきた神のイメージにも重なった。

 

神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きる者となった。   (創世記2:7

 

 そして、俯いて世界から閉ざされたような盲人が歩き始める様子は、「生きる者となった」というイメージに重なる。神がアダムに息吹を吹き入れてアダムが生きる者となったように、師が触れたことで盲人は生きる者となったのだ。

 数日後、かれは再び盲人だった男を見た。彼はいきいきと、師が自分にしてくださったことについて語っていた。彼は世界に触れるようになっていた。世界に居場所を取り戻したのだ。聖書は……「人がひとりでいるのは良くない。」……(創世記2:18と言う。神との交わりだけでなく、世界に居場所を与えられること、そして神の与えた使命に生きることが聖書の言う真に「生きる」ということだ。そういえば、師の話の途中に入ってきた親子をかれが追い返そうとした時、師はかえって……「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔をしてはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。」(マルコの福音書10:14とかれらを叱り、子どもを抱き上げ頭に手を触れて祝福した。

 師が触れると、それまで死んだようだった者がいのちを吹き返す。師は、人が真に「生きる」ことを求めるひとだった。師がよく口ずさむ聖書のことばがあった。

 

「あなたがたが行ったすべての背きを、あなたがたの中から放り出せ。このようにして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばない―神である主のことばー。だから立ち返って、生きよ。」   (エゼキエル書18:3132

 

 神さまに造られた尊い存在が、自分の尊さに気づかず、自分の尊さにふさわしい生き方をせずに歩むことから「立ち返って」生きてほしいのだ、と、そのために自分は生まれてきたのだと師は言った。そして、そのためにはいのちも惜しくないのだと師は言った。

 かれが師とともにいる時間が少なくなった時、師はかれを極みまで愛し、奴隷のようにひざまずき、かれの足に触れ、足を洗ってくれた。そしてその後、本当に、人々が「立ち返って」生きることができるようにといのちを投げ出してしまった。

 師ともう二度と会えないのだと悲しみに沈んでいたとき、師はかれらに現われた。「平安があるように」こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」(ヨハネの福音書20:22師の息に触れられ、かれは命を吹き返したように感じた。そして、師がかつて触れた男を思い出した。あの男は、師に触れられ、師の息吹によってつくられた泥を塗られてから、顔を上げて歩き始めた。かれもあの男のように自分の足で世界を歩いて行こうと思った。

 師はいつもかれにかれが神の息吹によって生かされる尊い存在だと教えてくれた。神の側がかれを選び、王として、祭司として、この世界に聖を分け与えていく存在として召してくださったのだと繰り返し繰り返し語ってくれた。かれは、師の息吹によってそのようなものとして生きて行こうと思った。そして、仲間にもそれを伝えようと手紙を書いた。

 

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。   (ペテロの手紙第一2:910

 

 かれはいま、同じように師の息吹によって生かされている仲間と、聖なる道を歩んでいる。聖なる道とは、師の歩んだような道だ。師が触れると世界は輝きだした。人々は地が躍り出すような、花が咲くような様子でいのちを吹き返し、その様子を見た人々は神をたたえた。障害や生まれや、様々な理由で「罪人」と蔑まれ、世界から居場所を奪われたような人たちが居場所を与えられ、師と同じように世界に花を咲かせていくのを彼は見た。そうやっていのちが本来の輝きを取り戻すのが「贖い」だ。

師はもういない。奴隷のようにひざまずいて足を洗ってくれたとき、師はかれらに言った。

 

「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。」   (ヨハネの福音書13:14

 

 師はだれかに触れるという模範を示してくださった。師が触れたものはいのちを吹き返す。かれも世界に、出会っていく人に触れていこうと思う。いのちなきものがいのちを吹き返すために。イザヤ書35章が描くいのち満ちる世界に近づくために。

 

  荒野と砂漠は喜び、荒れ地は喜び踊り、

  サフランのように花を咲かせる。

  盛んに花を咲かせ、歓喜して歌う。

  これに、レバノンの栄光と

  カルメルやシャロンの威光が授けられるので、

  彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。

 

  弱った手を強め、

  よろめく膝をしっかりさせよ。

  心騒ぐ者達に言え。

  「強くあれ。恐れるな。

   見よ、あなたがたの神が、復讐が、

   神の報いがやって来る。

   神は来て、あなたがたを救われる。」

 

  そのとき、目の見えない者の目は開かれ、

  耳の聞こえない者の耳は開けられる。

  そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、

  口のきけない者の舌は喜び歌う。

  荒野に水が湧き出し、

  荒れ地に川が流れるからだ。

  焼けた地は沢となり、

  潤いのない地は水の湧くところとなり、

  ジャッカルが伏したねぐらは

  葦やパピルスの茂みとなる。

 

  そこに大路があり、

  その道は「聖なる道」と呼ばれる。

  汚れた者はそこを通れない。

  これは、その道を行く者たちのもの。

  そこを愚か者がさまようことはない。

  そこには獅子もおらず、

  猛獣もそこに上ってくることはなく、

  そこには何も見つからない。

  贖われた者たちだけがそこを歩む。

  主に贖われた者たちは帰ってくる。

  彼らは喜び歌いながらシオンに入り、

  その頭にはとこしえの喜びを戴く。

  楽しみと喜びがついて来て、

  悲しみと嘆きは逃げ去る。  (イザヤ書35:110