福音主義神学会とアイデンティティと

一つの体の中に多くの部分があっても、みな同じ働きをしているわけではありません。それと同じように、私たちも数は多いが、キリストにあって一つの体であり、一人一人が互いに部分なのです。私たちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています。預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に、教える人は教えに、
勧める人は勧めに専念しなさい。分け与える人は惜しみなく分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。……喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。
ローマの信徒への手紙12章4-12節

「福音主義神学会には女性の理事がいない」そんな話を聞いたのは1年前でした。でも、あまり深刻には考えていませんでした。ある集団の中に当たり前のように女性がいないこと、そんなことをいちいち気にしていたら、あるいは傷ついていたらこの社会では生きていけないからです。
けれども、「そんなこと」を気にしなければいけないと思わされるきっかけになったのが日本伝道会議(JCE7第7回日本伝道会議の感想など (amazingscale.blogspot.com))でした。JCE7で私は「いなくて当たり前の人がいる」という状態は神の国からは遠いんだと思わされました。女性が「いなくて当たり前」というのは、(それは私たちのせいではないにせよ)「そんなこと」と軽く見ていいことではないのではないかと思うようになりました。
私は神学が好きで、神学が好きだから福音主義神学会というものも大切だと思っています。そういう場に「いなくて当たり前の人がいる」のはとても悲しいことだと思いました。
だからJCE7が終わってしばらくして、理事に、というお話をいただいた時には、私がお話を引き受けることと神の国を建て上げることは無関係ではない、と思いました。

※即答じゃなくてその間に別件で悔い改めたり色々したのですが長くなるので別の機会に。

お返事をした後でふと、私の肩書きに「福音主義神学会東部部会理事」という厳つい肩書が増えてしまう、ということに気づきました。
どこかに立つこと (amazingscale.blogspot.com)でも言ったように、私は「もっとも弱い人の側に立つ」と決めています。それが私の思うイエス・キリストの立ち位置だからです。(他の人は他の人でいろいろな理解はあると思いますが、あくまでも私は)
私には女性であるというだけでなく他にも色々とこの世界で生きて行くのに足を引っ張る属性があります。強力な後ろ盾も持っていませんし、華々しい経歴や学歴をもっているわけでもありません。(聖契神学校の卒業生であることは私の誇りですが華々しくはありません…)だからそれまでの私のアイデンティティは「虐げられている可哀想な女性」でした。
けれども、本当にそうなんだろうかと思ったんです。
私は私のような存在がこの世界で頑張っていくということに使命感を持っています。私が頑張れば頑張るほど「いなくて当たり前の人」を減らしていけると思っています。けれども、私が頑張ることで、私に何かしらの肩書きが増えていくかもしれない。そのことに不安を覚えました。私が目指していたイエスさまの立ち位置からどんどん遠ざかっていく。炊き出しの列に並ぶことができなくなっていく。その矛盾をどう考えたら良いんだろうと悩みました。すごく寂しく思いました。
そして、たとえ肩書きが増えなかったとしても、私はもとから決して「虐げられている可哀想な女性」ではなかったのだとも思いました。「先生」というのは権威です。神学校や大学院で学んだこと、教会の中に立場があること、年齢や国籍や成育歴、様々な面で私には十分誰かよりも強い立場に立つことのできる要素を持っていました。私は十分沢山の人を踏みつける側にいました。
でも、私には頑張ることをやめることはできません。頑張ることも私の大切な働きだからです。

どう考えたら良いかわからなくなって友人に相談しました。「私たちはすべてをかっこよくスマートにはできない。できるのは権力構造の中でどこにいても弱くされている人のために働くこと」そんな風に言われました。
この人はそうやって生きているんだなと思いました。思えばいつも、私よりあらゆる面で力や立場があるということを知りつつ、常に友人として対等に向き合ってくれていました。それなら私もそうやって生きよう、と思いました。自分には人を踏みつける力があるのだということも自覚しながら弱くされている人たちのために持つことの許された力を使っていこう、って。

そんなこんなで受難節を迎え、福音書を読んでいた時ふと、イエスさまには本当に肩書きはなかったのだろうかと思いました。
神、キリスト、大祭司、王…それらは十分に厳つい肩書きではないかと思ったのです。
そもそもイエスさまは社会の最底辺ではなかった。男性だったしユダヤ人だったしラビとして話を聞いてもらえる立場でした。イエスさまも力を持っていることを自覚しつつ、それでもへりくだって生きた方なのではないか、もしかしたらイエスさまご自身も葛藤することがあったかもしれない、それでも身を投げ出して弟子たちの足を洗い、愛する者たちのために力を使い果たした方なのではないか、そう気づいたのです。
そして、イエスさまがヨハネ福音書の中でたびたびしている自己紹介を思いました。「私は~である(エゴーエイミ)」という表現で、イエスさまはご自身を紹介されます。それらはすべて「いのちを与える」という神さまの聖なるご性質と関係するものでした。いのちのパン、世の光、羊の門、良い羊飼い、よみがえり、道であり真理でありいのち、ぶどうの木…。
食べ物によって栄養を得て生きていくように、私たちはイエスさまをがつがつと食べることでいのちを得ます。光なる方に照らされ歩いていくべき道を知ります。イエスさまという門を通っていのちの世界へ行き、良い羊飼いである方に養われながら生きていきます。この羊飼いは死に向かっていく羊のために自分のいのちも惜しまない方です。枝が幹から栄養をもらって実を結ぶように、私たちもイエスさまからいただいたいのちによって良い実を結んでいきます。
イエスさまは「私は~である」という表現で、「私はいのちを与えるものだ」というアイデンティティを語り続けたのだと思うのです。
イエスさまは所属や承認による肩書きよりもご自分がなにをするかということをアイデンティティにされる方なのかなと思ったのです。イエスさまは常に動詞をアイデンティティにされておられるのではないかと。
私が「厳つい肩書き」と思った神や王だってそうです。イエスさまがいかに治め、いかに生かし、いかに愛するかということと関わる肩書きです。

それなら私もそうしよう、と思いました。
私のアイデンティティは「(ありえないほどのスケールで)祝福を広げる人」です。どんな肩書きを持とうと手放そうと、そのアイデンティティに変わりはありません。どこで何をしていても私は、ありえないほどのスケールで祝福を広げます。
私が神学が好きなのは、神学校で改めて神さまと出会ったからです。そこそこ傷ついて生きてきた信仰生活の中で、神学することでもう一度愛の方として神さまを信頼する信仰を取り戻したからです。この方に生かされる喜びを取り戻したからです。神学(=神さまをより深く知ること)は人を癒し生かす聖なる力があると信じています。
だから私にとって神学すること、神学と関わることは「ありえないほどのスケールで祝福を広げる」ことの一環です。
もしも「福音主義神学会東部部会理事」という肩書きを持っていたとしても、私がその働きの中で祝福を広げていなかったら、そんな肩書きには何の意味もありません。けれども、福音主義神学会で私が少しでも祝福の広がりの為に生きることができているなら、その肩書きはイエスさまからの遠さを意味するものではなくなります。

私は神学や神学会を通して、これからも、ありえないほどのスケールで祝福を広げます。
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