誠実についてごちゃごちゃまとめたもの1

※いつになくごちゃごちゃした文章です。あっちこっちに話題が飛びます。

本書は、抑圧され、搾取されているラテンアメリカの地で解放の過程に関わる人々すべての体験と、福音とに基づいた考察の試みである。現代に横行する不正の状況を排除し、より自由で、より人間的な、現状と全く異なる社会を建築するために解放の過程に携わる人々の努力を、我々も分かち合って、本書のような神学的考察を生み出したのである。……我々の目的は、それ(引用者注:イデオロギーの確立や自己保身あるいは政治的行動を導くこと)よりも、自らを<神のことば>の裁きに委ね、信仰を考えぬき、愛を強め、そして我々の関わりをいっそう根源的で、全面的で、実効的なものとすることを通して希望を語っていく、と言うことなのである。
G・グティエレス『解放の神学』「序文」より


私が「解放の神学」と呼ばれる神学の類に惹かれる理由は様々ですが、その中のひとつの要素「誠実さ」について考えてみたいと思います。「解放の神学」とは、ラテンアメリカの貧困層から始まった、抑圧からの解放を目指す神学です。同じ時期、北米では人種差別に苦しむ黒人たちが解放を目指して神学を始め、フェミニスト神学やクィア神学、民衆神学、荊冠神学等様々な神学が生まれてきました。
それらの神学の特徴は「どういう私が神学するか」という立場を明らかにすることから始まるということだと私は思っています。「中立」で「客観的」な立場から「普遍的」な言説を語るのではなく、様々な痛みを背負った「私」という立ち位置から神学します。
それは「中立」で「客観的」であることを良しとしてきた神学への挑戦でもあります。
「解放の神学」は「中立」で「客観的」な立場などは存在しない、というメッセージを突き付けます。
私はそこに「解放の神学」の誠実さを感じるのです。

私たちは誰も「中立」で「客観的」な場所には立っていません。私たちは皆、自分がそれぞれ置かれた場所に立っているのです。もしも「中立」で「客観的」な場所に立つことができるとしたら、それは人間ではありません。それは神さましかありえない、と言いかけましたが、イエス・キリストは「中立」で「客観的」な場所に立ったのではありませんでした。ナザレの大工の家に(おそらく)父親のわからない子として生まれ、そして自ら「徴税人や罪人の仲間」という場所に立って生きました。「宿営の外」という人間扱いされないような場所に追いやられ、弟子たちの前にひざまずき、自らをその場でもっとも低い場所(女奴隷がいる場所)まで落とし、そしてその最期である十字架は「中立」でも「客観的」でもない場所でした。イエス・キリストは「犯罪者」として死にました。

デズモンド・ツツのゾウとネズミのたとえはこのブログでも何度も引用していますが(どこかに立つことでもこの記事とほとんど同じような話をしています)、力の不均衡の存在する世界において、被抑圧者でない限り、私たちは自然と力の側に与しているのです。「ラビと呼ばれるユダヤ人男性」であったイエスさまは、「普通に」生きていれば力に与することもできましたが、敢えて「徴税人や罪人の仲間」「宿営の外」「女奴隷」「十字架」という場所に立たれたのだと思っています。

先日ある牧師が「この世界で最も天国から遠い場所は教会の講壇だ」と言っていました。講壇に立つとき、この言葉を思い出していたいと思います。幸い、私の奉仕する教会は講壇の後ろに十字架があります。「講壇」に立つのではなく「十字架」に架かりに行くのだと思える説教者でありたいと思います。

もちろん、ある出来事が起きたとき、「渦中」にいない、ということはあります。ただし、その出来事について「中立」な場所から物事を見ることはできません。私たちは、すでに自分が生きてきて経験してきたことがあるので、その場所からしか見ることはできません。

そして、そのことを意識して「私は」という主語を使うということが私の考える誠実さのひとつです。「みんな言っている」「普通はこうだ」というよくわからない数の権力の後ろに隠れるのではなく、「私は○○だと信じ、宣言する」と言うこと、自分の言葉に責任を持つこと、そして、違う場所から見ればまた別の見方があると認めること。それらは「中立」「客観的」という存在しない場所からものを語ることよりもずっとずっと誠実だと信じています。

ただし、それでもなお、私たちは「私は」ではない主語で語る必要のある場面もあります。キリスト教倫理という営みの中で、私はその基準にいつも迷います。「私はいのちは尊重されるべきものだと思っている(けれどもそう考えない人のことも私は認めています)」とは私は言いません。「すべてのいのちは神に創造されたものであり、尊重されるべきである」と言い切ります。でも、「いのちを尊重する」という具体的な行動の内容については、やはり「私は」という主語で語らざるを得ません。

幸いちょっと時間ができたので、ようやく積読に手を付け始めました。リタ・ナカシマ・ブロックとレベッカ・アン・パーカーの『灰の箴言』です。(灰の箴言 | 松籟社 SHORAISHA
帯には「トラウマの経験から語る半自伝的神学」「暴力と差別に抵抗し自己犠牲を否定し神と人、人と人の関係を構築するフェミニスト神学」と書いてあります。



まだ読み始めですが、「暴力とトラウマという痛み」という立ち位置から語られる神学です。それは決して「中立」な立ち位置ではありません。加害者の側には加害者の見方があり、「渦中」にない者には「渦中」にない者の見方があります。(ただそれらは「講壇」と同じく天国から最も遠い場所、言い換えるなら十字架からもっとも遠い場所かもしれません)

そして、「私は」という主語で神学することの勇敢さも思います。
痛みを開示するということは恐ろしいことです。いじめにあった子どもがそれを親にすら隠すように、私たちは暴力に遭うことを恥じることがあります。開示した時に相手に受け取られないというリスクもあります。「その程度の痛み」として扱われたり、まったくの虚言だと思われたり。性被害の告発者が逆に世間の批判に晒されるということを私たちはよく目にします。
けれども、被抑圧者が「私は」という主語で神学する時、かれらはその痛みを世界に開示することになります。それは誠実であり勇敢なことです。

そして、そこから語られる神学の前に、跪く者でありたいと心から思います。ある時はもっとも弱い立場の人の側に立ち、また、ある時は告発される権力者として悔い改めたい。
それが私の思う「誠実」のひとつです。