誠実についてごちゃごちゃまとめたもの2

誠実についてごちゃごちゃまとめたもの1では、「私は」という主語で語ることについてごちゃごちゃまとめました。
同じようなことをあちこちで話している上にこのブログでもすでにそういう記事を書いていましたが、多分「人はその人の立っている場所からものを見ている」ということは、私が特に伝えたいメッセージなのでしょう。今後もそういう話ばかりするかもしれませんが、お付き合いください。

そんなことを踏まえつつ、職業柄(教員として10年、教会で働いて2年ちょっと)人の話を聴くことは多いのですが、心がけていることがいくつかあります。

ひとつは「真実の物語として聴く」こと。人はそれぞれの立場から語っているので、当然主観を通した物語を語るわけです。対立するAさんとBさんの話を聴くと、まったく逆の物語が語られることがあります。けれども、AさんにとってもBさんにとっても、それは真実の物語なのです。もちろん人は意図的に嘘をついたり誇張したり、あるいは矮小化したりして語ることもあります。けれども、その人が私に「この物語を聴いてほしい」と思って語っているということにおいて、その物語は「真実」なのだと思うのです。事実関係を整理して物事に対処しなければいけない時は別ですが、「聴いてほしい」と思って語られる物語についてはただ受け止める、ということをしたいと思っています。

次に「知らない物語として聴く」ということ。たとえば小説を読む時、その小説の世界にはルールがあります。ページを開くまで私たちは「ホグワーツ魔法魔術学校」の校内図を知らず、物語を読み進めていくうちに寮がどこにあるのかわかってきます。(『賢者の石』が和訳されたときちょうど6年生だったので、入学案内が送られてきたらホグワーツに行くべきか、3年間受験勉強をして合格した第一希望の学校に行くべきか悩みました)読み進める中でどういう制服を着ていてどういう時間割でどういう成績基準があるのか知ります。だれかから聴かせてもらう物語もそうです。私にはその人がどんな人生を辿り、どんな痛みや喜びを経験し、どんな意味でその言葉を使っているのか知りません。だから、初めてページを開く物語のように聴き、自分の世界の常識で判断しないようにしようと思うのです。

そして、「自分は物語の主人公ではないと弁える」こと。「○○で○○で○○で……私どうしたら良いでしょう?」そういう風に問われることがあります。けれども、私はその人の物語の主人公ではありません。私は私の人生を生き、その人はその人の人生を生きています。ですから、私が主人公の行動を勝手に決めることはできません。責任も取れません。物語がこんがらがっているときに、それを整理するお手伝いをすることはできます。その人が気づいていない部分に光を当てることもできます。選択肢を示すこともできます。でも、その人がその人の物語を生きて行けるように、神さまと一緒に一歩踏み出していけるように、そのお手伝いをするのが「聴き手」に果たせる役割なのだと思っています。

私は私の場所からものを感じ、考え、生きている。
私以外の誰かは私以外の誰かの場所からものを感じ、考え、生きている。

そのことを弁えつつ、自分の人生や言葉に責任を持っていくことが私の考える「誠実」です。そして、誰かの物語を盗ってしまうことなく、自分の限界を弁えながら相手の生を尊重していくこと、それもまた私の考える「誠実」です。

最近、通っていた病院を変えました。予約外でも受け付けてくれるだけでなく、私はそこの先生が好きで、信頼していました。だから転院したくなかったのですが、「限界です」と言われました。「あなたの職業は特殊だから、私には組織の仕組みも働き方もわからない。宗教上のタブーもわからない。これ以上細かい指示を出すことは限界です」と。そして、もう少し診察に時間をかけられる病院に移ることを勧められました。本当に良いお医者さんだったと思っています。
先生は「わからない」ということを認めてくれました。「限界です」ということを認めてくれました。
大学を卒業して以来「先生」と呼ばれる仕事をしてきました。世界のことをなんにも知らない未熟な者が「先生」と呼ばれるというのはある意味ではとても恐ろしいことです。自分の専門分野しか知らない、もっと言えば自分の専門分野すらたいしてわかっていない者が、急にいろんなことを知っている者であるかのように振舞えてしまうのです。でも、私たちは知らないのです。自分の経験し、見聞きしてきたことしか知らない。私は一応キリスト教倫理が専門ですが、キリスト教倫理って何ですかと聞かれたら「さあ?」としか言えません。その程度の者です。

これからも職業柄沢山の人の話を聴かせていただくことになると思います。その時、「限界です」と言ってくれたあのお医者さんのような誠実さを持っていたいと思うのです。

限界です、わかりません、私にはあなたの人生にまるごと責任を持つことができません。そういう者が、誰かの人生に関わらせていただくとき、私はどうやって精一杯誠実に相手を愛することができるだろうと常に自分に問う者でありたいと思っています。私は相手に対してどこまで責任を持つことができるのか、自分の言葉が相手にどのような影響を与えるのか、私の言葉に影響を受けてもなお、相手は相手の物語を生きることができるのか。そういうことに気を付けていたいと思っています。

教員として、人を生かすお手伝いがしたいと思っていました。でも実際には、人を殺さないということで精一杯でした。「先生」という立場からものを語る時、私は簡単に人を殺せてしまう。子どもの頃に先生に言われた一言が、その後の人生に深く影響を与える傷となっている人と出会ってきました。私も知らないうちにそうしているかもしれない。そう思いながら、祈りながら、教壇に立ってきました。
今も同じです。人を生かすお手伝いがしたい。その気持ちは変わりません。でも、牧師という仕事もやっぱり、簡単に人を殺せてしまう職業です。魂を殺せてしまう。牧師に魂を殺されてきた人にもまた、何人も出会ってきました。そう考えると、だれかと関わって生きていくということにはものすごい責任が伴うのだとも考えさせられます。

私は、私の立っている場所からだれかの物語を聴かせていただきます。また、私の立っている場所から誰かにものを語ります。相手と自分の立ち位置の違いを自覚しつつ、それでも「ともに」生きる。責任を取り切れない相手の人生の一部分に関わり、それでも、その部分において責任を持つ。それは、いつまでも正解の分からない果てしない旅のようだなと思います。

誠実に生きていきたい。

人生とは、問われていること、答えること、――自分自身の人生に責任をもつことである。ですから、生はいまや、与えられたものではなく、課せられたものであるように思われます。生きることはいつでも課せられた仕事なのです。このことだけからも、生きることは、困難になればなるほど、意味のあるものになる可能性があるということが明らかです。
V・E・フランクル『それでも人生にイエスと言う』