だから詠むのかもしれない
「短歌は一人称の文学だ」と言われます。短歌においては「私」という一人称を詠み込まなくても、「私」の視点で詠まれていることが前提とされています。(短歌論や短歌史を学んだわけではないので偉そうなことは言えませんし、短歌における「一人称」については色々と議論があるのでこれ以上の詳述は控えます)
だから私は歌を詠むのか、と腑に落ちたことがありました。
昔からある程度は自覚していて、最近改めて指摘され、克服を目指していたことがあります。「ネガティブな感情を認める」ということです。きっかけはある人からの指摘でした。
「起こった出来事はこれだけ正確に説明できるのに、どこにもあなたの感情を表す言葉が出てこない」
そこから始まった「ネガティブな感情を認める」ための練習。最初は日記を勧められましたが、根性のない私は三日坊主どころか一日が限界でした。詳細な日記ではなく「悲しかった」とか「嫌だった」とかの一言でいいと言われたのですが。
感情を書き残すことは面倒でも、歌にならできると思って、最近はちょっと意識的に歌を詠んでいました。もともと私は「自分の心をかたちにする」ために歌を詠んでいます。楽しい、嬉しい、幸せ、大好き、といったポジティブな感情はわざわざ歌にしなくても感じられるのであまり歌にしようとは思いません。一方ネガティブな感情は歌にでもしなければ表に出てきてくれません。だから「魂から血を流しているような歌」を詠んで、かたちになった自分の心を見て、「あぁそういう気持ちだったのか」と納得するということを繰り返していました。セルフナラティブセラピーです。(「バンドマンと付き合うと曲にされる」と言われることがありますが、バンドマンも歌人も似たようなものです、きっと)
「ネガティブな感情を認める」練習の成果が少しずつ出てきて、それまでは動悸というかたちで出ていたネガティブな感情を少しずつ外に出せるようになってきました。ただ、どうもまだ成長途上のようで、認められる感情には限度があるようです。
心理士さんには「まだあなたには対・人は難しいのかもしれない」と言われました。人にネガティブな感情を伝えるのは難しい、というより怖い。
受け止めてもらえないんじゃないかという怖さ以上に、アンフェアなことをしているという怖さがあります。
私が何かの体験を誰かに語る時、当然「私」の視点から語ることになります。私は意図的に嘘をつくこともできるし、無意識に自分に不都合な情報を隠すこともできる。そういう状態で話した相手から私の感情を承認されることで、「私=正義、私ではない存在=悪」のような意識を持ってしまったら怖いと思うのです。
戦争・虐殺・差別・ハラスメント・いじめ・虐待……その他諸々の暴力は「私=正義、私ではない存在=悪」と信じた人によって起こされると思うのです。自分を正義の側に置くことほど怖いことはない、と思うので、どうしても人に対して感情を話すのは躊躇ってしまいます。
自分が気を付ければいいことですし、相手がなんと反応しようと、それで調子に乗って他者を傷つけなければそれで良いのでしょうが、「私」の視点から語ったことが善悪の判定の材料として提供されてしまうことに恐れがあります。
でも、短歌は別です。
短歌は初めから一人称の文学です。「私」の視点から語られていることが前提とされていますし、善悪の判定の材料として提供されることもありません。31音という制限があるので、それを超える情報は伝えられません。Aさんという人がいてね、Aさんと出会ったのは〇歳の時で、こういうことがあって、Aさんと共通の知り合いにBさんがいて……といった出来事の詳細は自動的に省略されます。読み手もそれがわかっているので、一首の短歌をもとに判定を下すことはできません。ただ、「魂から血を流している」ことだけを受け止めてもらえます。
暴力や不正の告白として詩歌が用いられたり、預言者的な行為として詩作されたりすることもありますし、一方で詩歌がイデオロギーと結びつくことはあり得ます。けれども、それでも「一人称の文学である」という前提は残ります。
何なら短歌には「虚構」が含まれることがあるという前提もあります。文学として仕上げるために、実際とは違う情報を織り込むことができるのです。(俵万智さんの「サラダ記念日」の歌は、実際には7月6日でもサラダでもなくカレー味の唐揚げでした)
徹底的に「私」の視点から語られた、「私」の独りよがりで作為的な表現だという前提の下で成立する。だから短歌というかたちを借りれば楽に感情を表現することができるのだろうと思うのです。
あの時に言うべきだった言葉たち六花川面に舞い降りて消ゆ/美好ゆか