ぬい撮りアカウントを一年やってみた①



「ぷーとん牧師@平塚聖契キリスト教会」のアカウントを初めて1年が経ちました。

ぷーとん牧師@平塚聖契キリスト教会(@pastorputon)さん / X

神学生の頃から今の時代SNSだよね、という漠然とした思いに加え、「教会の中が見える」安心感を提供できたらな、と思っていました。ただ、自分が「ない」づくしであることは自覚していました。

Twitter? いわゆる「バズる」文章を書くセンスはない。
Youtube? 動画編集もできない、話すのも苦手、音楽もダメ、面白い企画も無理。
Instagram? 写真のセンスはない。アプリも使えない。ショート動画も作れない。

そして平塚教会に行くことが決まった時。
最初に思ったのは、この教会は「たまたま見つける」タイプの教会ではないということでした。(出身教会は一応商店街の中にあったので「たまたま見つける」ことのできる教会でした)
ここにある、と発信しなければ「たまたま」気づいてもらうことが難しい。「たまたま」気づいてもらうことが難しければ、その分中を覗くハードルも上がる。

ただ、写真・動画・文章のセンスのない私には「牧師」とか「教会」一本でSNS宣教する才能はないだろうと思っていました。なんのセンスもない牧師が教会の中の写真を投稿したところで教会外の人が見るとは思えない。
「ない」づくしの私でもできそうなものとして消去法で辿り着いたのが「ぬい撮り」でした。ぬいぐるみの写真があれば、たとえからっぽの礼拝堂でもパレイドリア現象(人間の顔でなくても「顔」があると安心する)を期待できるのではないかというのが「ぬい撮り」を選んだ理由でもあります。
我が家にはぬいぐるみ(我が家では「仲間」と呼んでいますが、ぬい撮り界隈ではだいたい「ぬい」と呼びます)が沢山(主に豚)います。私なので豚がいい、できれば知名度があり、かつ持ち歩きに適したサイズが良い、ということでぷーとんが選ばれ、ただの「ぷーとん」だったぶたは「ぷーとん牧師」という肩書を与えられました。
ちなみに「ぷーとん」というのは内藤デザインという会社が出しているぶたのぬいぐるみの商品名です。「ぷーとん」で検索するとうちの子以外にもいろいろ出てきます。
(「IKEAのサメ」「ソフト牛」「ミニビーンズいるか」「ワニのワーリー」あたりも有名ですが、生憎我が家にはいません)

宣教のためのアカウントを開設する際に参考にしたのはふたつ。
片柳弘史(@hiroshisj)とカレー坊主(@curry_boz)です。片柳神父は「神父×すずめ」カレー坊主は名前の通り「僧侶×カレー」どちらも「宗教×趣味」で有名になったアカウントです。(全能神の人も結構その手法を使っています)

かくして「ぷーとん牧師@平塚聖契キリスト教会」アカウントは誕生しました。あくまでも「ライト層のための窓」であるというのが、私の中での位置づけでした。人生に悩み、救いを求め、神を求め……という人には別のツールがあるので、このアカウントは「教会ってどんなところか覗いてみたい」「ちょっとキリスト教ネタに触れてみたい」くらいの人に教会の内側をお見せできたらいいな、というつもりでした。キリスト新聞社の松谷さんが言うところの「ニワカ」のためのアカウントです。



ぷーとん牧師を始めたときに気を付けたのは以下のことでした。

①ぬい撮りアカウントとして使っていく
ジャンル違いの写真は投稿しない。
②クリスチャンフォロワー<ぬいフォロワー
積極的にクリスチャンはフォローしない(一部例外を除き)。クリスチャンと繋がるためのアカウントではなくぬい友さんと繋がるためのアカウントであるとぬい撮り界隈に示す。
③伝道ツールにしない
聖書の有難いお話も神学議論もコンセプト違いなので基本的にはしない。
④でも福音を隠さない
教会とは何なのか、私たちは何を信じているのか、そのことは伝え続けました。そして「教会は、だれでも、どんな時でも来ていい場所です」そのことだけをひたすら伝え続けました。
⑤平塚情報を発信する
平塚の魅力と一緒に発信することで、平塚在住の人、平塚という土地に興味を持っている人に届けたいと思っていました。

(公式として使えるような内容の投稿にすることも心掛けていました。「公式として使える」の中には「炎上させない」や「プライバシー保護」も含まれます。私はすべての炎上が悪いとは思っていません。声を上げられない人の代わりに発信したために炎上することも、炎上の結果知名度が上がることもあります。ただ、争うことが極度に苦手(他人の喧嘩を目撃しただけで寝込んだことがあります……)な私が「炎上」の種を蒔いてしまったらそれで消耗して本職に響くだろうというのはわかりきっていたので……。そういうわけで、「ぷーとん牧師」は私の中にわずかに存在する光属性だけを反映させたアカウントになっています。)

①②は短歌アカウントでの経験がヒントになりました。「同じ言語(=同じ趣味)」を共有する者同士だからこそ届けられるものがあるというのは短歌を通じて出会ったフォロワーさんによって経験済でした。ぷーとんも、大袈裟に言えばぬい界隈への宣教師。同じ世界で生き、同じ言語を共有することを目指していました。
③④は教員時代の経験がヒントに。教員時代、「伝道」はしませんでした。でも、「伝道」しなくても福音を届ける方法はある。神の国を生きる姿、でもうまく生きられずに葛藤する姿、それを見せることが福音を届けることだと信じて学校で働いてきました。




そんなこんなで始めたぬい撮りアカウント。
いくら同じぬい撮りと言えども、アカウント名に堂々と「牧師」とつけていたら警戒されるんじゃないかと思ってはいたのですが、全然そんなことはなく。アカウントを始めて1か月も経たないうちに「イースターって明日なんだね。ぼくの家の近くの教会もなにかイベントをやっているかなあ?」とコメントがつき、もしかしたらこうして発信を続けていれば、だれかの人生の選択肢の中に「教会に行く」というものが増えるかもしれないと思うようになりました。それは平塚教会じゃないかもしれないけれどそれでいい。平塚教会の中をチラ見せするという以上のことができるのかもしれないと思い始めました。
もちろん、SNSを始めたからと言ってそうすぐに人が来るとは思えない。5年、10年続けて行けばどこかで実りを見ることができるかもしれない。教員時代も現役の生徒が信仰を持つ場面には立ち会いませんでした。それでいい。それがいい。でも、その代わり「信仰を持ったきっかけは若いころ通っていたキリスト教学校です」という方(私よりはるかに年上)に出会えて自分の生徒かのように嬉しいということが何度もありました。
そういうことがあったら嬉しいな、ある日ぬい友さんがどこかの教会のクリスマスコンサートにでも行ってくれたらいいな、そう思っていました。

そして7月のある日。その日は教会で夏祭りを開催していました。
初めて来てくれたご家族に「どちらから来られたんですか」と声をかけると「○○です」。おかしいな、○○にはアナウンスしていないんだけどな、もしかして○○教会の△△先生が宣伝してくれたのかな、と思ったら「ぷーとんさんですよね? ××です」と小さなくま登場。




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