没にした原稿
神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。(ローマの信徒への手紙3章22-24節)
人はなぜやらなければいけないことがある時に限って関係ない原稿を書き始めるのか。そして、せっかく書いた原稿も没にしました。
「キリスト教はA(=ある属性)でありつつ健全であることはできるか」という方向で論文を書いていました。「健全」という言葉に言いようのない気持ち悪さを感じて「健康」「誠実」「良心的」等に置き換えようとしましたが、結局ただの言葉遊びに過ぎない上に、まったく着地点が見えない。無理矢理着地しようとすると「健全」という言葉以上に気持ち悪い結論になる結末しか見えない。
まだ下書きだし、ということで気持ち悪さはそのままに書き進めていたのですが、没にしました。
「Aであることは必ずしも不健全なわけではない」「Aかつ健全であることはできる」「どの条件を満たせばAかつ健全であれるか」という方向性で書いていたのですが、それは「ある条件を満たしていない人や団体は不健全である」というレッテル貼りになります。そして、「ある条件を満たしていない(自分たち以外の)人や団体は不健全である」というレッテル貼りは「自分たちは条件を満たしているから健全だ」と慢心に繋がります。
そして「健全/不健全」「良い/悪い」「正しい/誤っている」のスラッシュ(/)が気持ち悪かったのだと気づきました。私は「キリスト教はAでありつつ健全であることはできるか」という論文を書くことによって何が健全で何が不健全かの線引きができる立場に身を置いていました。そもそも私には線引きする資格などないのに。
「健全」の枠の中にいると主張することで自己弁護することからは何も良いものは産まれない、むしろ危険ですらあります。線引きすることによって私たちは神に成り代わってしまえるからです。
そして、Aさん本人に「Aさんの中にも健全だと認められたいという思いを持っている人もいますよね」と言ったところ、首を傾げられました。
「私たちは多かれ少なかれ健全ではない」と認めること、それは「私たちは罪人である」という自覚と重なるように思います。
ただし、「どうせみんな罪人なんだから何をしたってかまわない」とはならないのと同じで、「どうせみんな不健全なんだから何をしたってかまわない」とはならないとも思うのです。自分の不健全性を認めつつ、それでも「より良い」方向に向かっていくことはできるのではないか、自分自身が「健全~不健全」のグラデーションの中にいることを自覚しつつ、どこかへ行くことはできるのではないか。『福音主義神学』への投稿論文「聖なるものの受肉」はスラッシュ思考ではない倫理を追い求めたものでした。結局同じところをぐるぐるしています。私はいつかどこかに辿り着くのでしょうか。