「クリスタの経血」と私(女性)
キリスト新聞社さんの『別冊ミニストリー』に「クリスタの経血」という詩を掲載させていただきました。
【新刊】 別冊Ministry 2025年7月号 特集「マッチョな権力者の話は聞き飽きた」 - キリスト新聞社ホームページ
できたら「クリスタの経血」をお読みいただいた後にこのブログを読んでほしいのですが……皆様にお任せします。
作品の解説をするのは野暮だと思っているのでしませんが、「クリスタの経血」が誕生するまでのお話だけしてみようかなと思います。(血・女性・詩の三部作)今回は「女性」です。
「女性神学の『女性』って誰のことですか」ととあるフェミニズム神学者に質問したことがあります。長い間私は「女性」神学がいうところの「女性」には含まれていないと感じていました。その時の答えは「私は『女性』神学という言葉は使いません。フェミニズム神学と言います」というものでした。よくわからないけど、なんか「女性」って言い切るよりマイルドに言い換えているんだな、とその時は思いました。(先にお断りしておきますが、これは当時の私の不勉強ゆえの誤解です)
私は社会が「女性」に割り当てている記号が比較的好きです。ピンク、かわいいもの、フェミニンな服装、高校生の時の将来の夢は良妻賢母でした(結婚してから自分には「良妻賢母」の賜物はないと知りました…)。だから別に「女性」というジェンダーロールに苦しめられてはいない、フェミニストの人たちには余計なことはしないでほしい、と思っていました。
女子高育ちだったことも影響しているかもしれません。母校の女子学院は女性の自立を大切にする学校でした。ある日「結婚しても配偶者を『主人』と呼んではいけないし、他人の配偶者を『ご主人』『旦那さん』と呼んではいけない。『お連れ合いさん』と呼びなさい」と言われ、十代の反骨精神にあふれた私は何があっても結婚したら夫を「主人」と呼び、他人の配偶者を「ご主人」と呼ぼうと心に決めました。(ちなみに、先生の言うことに黙って従うことを良しとしない学校だったので、それはそれでアリでした)
そんな私が「私は『女性』神学という言葉は使いません。フェミニズム神学と言います」というあの言葉の意味を理解し始めたのはいつからだっただろうと思います。思い出せませんが、「教会」という世界の中でだったということだけはわかります。
「教会」という場所はジェンダーロールや理想の家族観、理想の結婚観、(聖書に書いてもいない)性倫理の影響の強い場所でした。そこで苦しんでいるのは、私が「女性神学」という言葉から連想していた「女性」だけではなく、いわゆる「女性」だけでもなく、いわゆる「男性」だけでもなく……ありとあらゆる人たちでした。
そして私は女性(公表できる範囲でもう少し詳しく言うとシスジェンダー女性、異性愛者でロマンティックアセクシャル、その他諸々)として生きづらさを覚えるようになりました。
特に神学校に入り、牧会者を目指し始めたあたりから、「あれ?」と思うことが増えてきました。そういうことについては他の女性献身者の先輩が色々発信されているので、私が個人的に興味を持っているテーマを一つだけ挙げるとするなら「洗礼槽」問題です。
私が育った教会は移動式のお風呂のような洗礼槽だったので、受洗者だけが洗礼槽に入るスタイルでした。だからどこの教会もうそうだろうと思っていたのですが、色々な教会に行くたびに、教会の床に洗礼槽が設置されていて、司式者が一緒に中に入って洗礼式をするというタイプが結構あることに気づきました。
「生理のない人」が司式をすることを前提に造られているんだなと感じました。もしも将来赴任する教会があのタイプの洗礼槽だったら……私の体調に合わせてもらうわけにもいかないからピルをのむか、それともそうなってしまったら別の教会から男性牧師を呼んでこないといけないのか、ピルをのむんだったらそれは全額私の負担なのか、役員会に相談しなきゃいけないんだろうか……色々悩みました。
結局私がいま牧会している教会にはそもそも洗礼槽がなかったので大丈夫だったのですが。(この間婦人科で「あなたは体質的に心不全のリスクが高いからピルは処方できない」と言われました……鎮痛剤で対処していますが、鎮痛剤だと痛みしか抑えてくれません……)
ともあれ、色々な面で「あれ?」と思うわけです。「あれ?」では済まないことの方が多いのですが……多分皆さんいろいろ言いたいことはあると思うので身近な女性献身者の方に聞いてください。いろいろ出てきます。
一方で、「女性神学者」「女性牧師」として大切にされればされるほど、下駄をはかせてもらっているような、なんともいえない気持ちにもなりました。たいしたことをしていなくても、そこにいるだけで目立つのです。喜ばれるのです。
「○○には男性しかいない。非常にジェンダーバランスが悪い」と言って仕事がやってくるのです。お仕事をいただけることは有難いことですし、ジェンダーバランスの悪さに気づいてくださる男性を私は尊敬しているし感謝もしています。でも、これは私の実力なんだろうか、それとも実力はともかくとして女性だから選んでもらえたんだろうか、とふと思ってしまいます。
私が男性だったらこうは扱われなかっただろう、というのは両方の面で感じることでした。
以前福音主義神学会の男女比と学会誌に掲載されている論文の男女比をなんとなく比べてみたことがありました。学会誌の方が女性の比率が高かったように記憶しています。編集委員の先生の配慮かも知れません。けれども、もしかしたら女性は「よほど優秀」でなければスタート地点にすら立てないのかもしれない、と有名どころの女性の先生方の名前を見ながら思いました。
私も「よほど優秀」にならなきゃいけないのかなとプレッシャーに感じたこともありました。(まぁでもいいや、私は私で。と今は思っています)
一方で、人は純粋に自分の実力だけで今の場所にいるわけでもないとも思います。
有難いことに少しずつ私の発信に目に止めてくださる方も増えてきました。でも、私が日の目を見ることができたのは、色々な点でマイナススタートだった私に気づき、助けてくださった方々のおかげです。
「人に恵まれた」ということが私の最大の力でした。
周りの人たちの愛情によってここまで来られたという意味では有難いことですが、同時に、そうでなかった人たちのことも思います。私なんかよりよほど優秀だったり能力があったりする人たち(「女性」に限らず)が働きの場がなく、苦しんでいるのを見ています。
その人たちと私の最大の違いは「気づいてもらえたかどうか」だと思っています。
そんな風に「教会」という場所で生きていく中で、私は自分がこういうセクシュアリティをもつものとして造られたことを強く意識するようになりました。
私がなにかを感じ、考え、行動するとき、悩み、喜び、共感したり賛同できないと思ったりするとき、そこに私のセクシュアリティというものは切っても切り離せないものでした。
自ら選んだわけではないものです。多くは語りませんが、自分で選べるならこのセクシュアリティを選ぶことはしませんでした。でも、このセクシュアリティを与えられたからこそ見ることができたものがありました。
サラが笑い、バテ・シェバがダビデの子を妊娠し、サマリアの女性にかつて何人もの夫がいたこと……そういうことが、聖書ではあのように記述されている。もしも私だったら別の表現をしただろうな、と思います。
もちろん、人は自分の視点からしかものを見られません。だから、聖書が特定のだれかの視点で書かれることは当然のことです。神さまがご自身の豊かなメッセージを人間に伝えるのに、特定の時代に生きた限りある特定の人間を選ばれたということは、なんだかとても不思議で、とてもすてきなことだと思っています。
でも、イエス・キリスト/クリスタなら、彼女たちをいったいどういう目で見ただろうか、それは限りある人間の著者の視点を超えたものだったのではないか、と想像しても良いのではないかと思うのです。
「教会」は、多くの弱者を「自分の視点」から見てきました。聖書を記し、聖書を読み、解釈し、神学し、それを発表することができたのは圧倒的に強者たちでした。(ここでいう「強者」とは「男性」とイコールではありません。「男性」であっても弱者側にいる人はいますし、「女性」でありながらその他の属性によって圧倒的な「強者」になることのできる人もいると思います、今のところ具体的に思い浮かびませんが)
そしてその結果、自分が想像することのできない痛みをなかったものとして扱い、かれらを切り捨て、排除してきました。あまつさえ「教会の一致が保たれた」と喜んできたと思います。
「クリスタの経血」は美好ゆかの「自分の視点」です。美好ゆかは、セクシュアリティのゆえに「弱者」でした。でも、幸いにも神学を学ぶことができ、研究させてもらえる環境をいただき、母国語で文章を書き、発表の場を与えられ、それを読んでもらえるくらいの場所にはいさせてもらっています。恵まれています。
きっともっと多くの、もっと豊かな「自分の視点」があり、それらが他者を排除するものではなく、福音をより豊かに理解し、あらゆる人がそこにいることのできる「御国」をつくっていくものになればと願っています。
Christa Interview with Edwina Sandys by Nettie Reynolds – Feminism and Religion
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