「クリスタの経血」と私(血)

お久しぶりのブログです。

キリスト新聞社さんの『別冊ミニストリー』に「クリスタの経血」という詩を掲載させていただきました。
【新刊】 別冊Ministry 2025年7月号 特集「マッチョな権力者の話は聞き飽きた」 - キリスト新聞社ホームページ




できたら「クリスタの経血」をお読みいただいた後にこのブログを読んでほしいのですが……皆様にお任せします。

作品の解説をするのは野暮だと思っているのでしませんが、「クリスタの経血」が誕生するまでのお話だけしてみようかなと思います。(血・女性・詩の三部作)
私にとって「血」は特別なものです。どうも父親は私が医療職に就くことを願っていたようなのですが、極端に血が怖いため早々断念しました(理系もまったくできませんでした)。指先を切って(血を見て)気持ち悪くなって救急車で運ばれたことがあるくらいです。
その割に私の書くもの、詠む歌には「血」という言葉がよく出てきます。

どういう時系列で「血」というものに関心を持つようになったかは覚えていません。
けれども、少なくとも大学院の旧約のレポートではレビ記12章(出産の汚れ)を取り上げ、その後神学校の旧約のレポートでも血と汚れを取り上げていました。クリスタという女性のキリスト像があると知った時、きっと彼女は経血を流してながら十字架に架かっているのだろうだろうと思っていました。

女性差別、障害者差別(※社会が本人に「害」を与えているという意味で私は漢字表記にこだわっています)、あらゆる差別と「汚れ」と「血」という発想は関係しているとある時から思うようになりました。

一方で、「血」は聖書の中で神聖なものとして扱われます。血はいのちであり、贖いのために用いられるものであり、最後の晩餐の席では血を飲むように言われます。
あらゆる文化において「聖」と「汚れ」は紙一重です。
血は神の領域に属するものであり、人間は不用意に接近してはならないものです。タブーです。
イザヤ書6章で聖なる神に接近し死を覚悟したイザヤに神の方から触れてくださり、いのちを与えます。「血を飲め」という命令はそれに似ているように思います。

また、個人的にも血については思うところがあります。
「月経困難症」という言葉すら知らなかった頃、私はまわりの女性がみんな自分と同じ思いをしているのだと思っていました。定期的に死にたいくらいのメンタルの不調が襲ってくる、痛みと吐き気でのたうち回り日常生活に困難をきたす。今振り返ると高校に行けなくなったことと月経困難症は無関係ではなかったように思います。
ある時、あまりの吐き気に耐えられなくなってSNSに「気持ちが悪い」と書いたことがありました。その投稿が責任者の目に留まり、数日後に迫っていたキャンプ奉仕に参加することができなくなりました。責任者が男性だったため、ただの生理痛だと言うことができず、それ以来、教会では体調不良を隠すようになりました

聖書は女性の出血を汚れととらえ、共同体から一時的に隔離します。長血の女の場合は「一時的」ですらありませんでした。それらの記述は、私にとっては他人事ではありませんでした。
現代を生きる私にとっても「血は汚れ」でした。

それでも聖書は「血はいのち」だと記述しています。

レビ記12章によると、生まれた子の性別によって清めの期間は違います。女児の場合清めの期間が二倍なのは、その子もまた出産の可能性があるからという説があります。
女性の血が「汚れ」であり「いのち」であるのは出産のゆえなのか。だとしたら、産むことのない女性は血になんの意味を見出せば良いのか。「産む」というだけが女性の価値なのか。
出血がなく、身体的に健康で、あらゆる条件が整えられた男性だけが「基準」で、女性や障害者やなんらかのハンディを持つ人々は「汚れ」として共同体の構成員から外されるということは、決して遠い聖書の時代の話だけではないように思います。

心や体の弱さは長い間コンプレックスでした。決して悟られてはならないという恐怖から、極力隠すようにしていました。でも、隠せる程度の弱さではないのでどこかでバレてきました。それでも変わらず接してくれる人たちのおかげで痛みは癒されてきました。
それでも、若いころに植え付けられた恐怖はなかなか拭えないままここまできてしまいました。

そんな個人的な痛みから生まれたのが「クリスタの経血」でした。

イエスさまが完全な神であると同時に完全な人であるなら、きっと体や心にも弱さを持っていただろうと思うのです。血を流したのも痛みを覚えたのも、決して十字架が初めてではない。病気になったことだって怪我をしたことだってあっただろうと思います。そんなことは当たり前のことかもしれないけれど、「イエスさまだって血を流したことがあるだろう」ということは、私にとって大きな慰めです。実際にイエスさまは「呪われた者」(申命記21章23節)として死んでいきました。十字架で流された血は汚れの象徴であり、その死は無駄死にしか見えなかったはずです。

「何の意味もない汚れた血」として扱われる生、傷、痛み、苦しみ、死があふれるこの世界で、「何の意味もない汚れた血」が「何の意味もない汚れた血」で終わらない。それが十字架のメッセージだと思うのです。

Christa Interview with Edwina Sandys by Nettie Reynolds – Feminism and Religion

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