「謝る」という行為

わたしたちが赦された民である時にのみ、このような平和が可能であるのは大切である。わたしたちが第一に学ぶべきことは、赦すことではなく赦された者であることである。しばしば、赦しを与えることが、他者をさらに支配する方法になる場合がある。わたしたちは赦しによって自分が無力にされると思うので、他者に赦されるのを恐れる。そこには、支配を失うことへの恐れがある。しかし、わたしたちは「われらの罪をもゆるしたまえ」と祈りつづける。わたしたちは、イエスの生と死をみつめ、神の赦しを受け入れることを学ぶことによってのみ、そういった支配を諦めることを学べるのである。

ハワーワス『平和を可能にする神の国』155-156頁


私にとって赦しや和解はあまり得意なテーマではなく、心穏やかに向き合うことは難しいなと思います。赦せない人、和解したくない人、「赦さなくてもいいんじゃない?」と声をかけたい人、「和解しなくてもいいんじゃない?」と声をかけたい人がいるからだと思うのですが。

だいたい赦す側に立ってものを考えることが多いのですが、今日は赦される?側から。特に神学的でも何でもありません。私のごちゃごちゃの気持ちを書き残しておきたいな、という動機です。


私は比較的よく謝る方だと思います。「教師の一番の仕事は生徒に頭を下げること」(「教師」の部分に入れるのは「牧師」でも「先輩」でも「大人」でもなんでもいいと思いますが)だと思っています。生徒にもそう伝えているのでたまに指摘してくれることもあります。(大抵の子は飲み込んでしまうだろうけれど)でも、はじめからそうだったわけではありません。

私は謝れない人間でした。「謝ったら負けだと思っている人」でした。謝るということは自分が過ちを犯したのを認めることです。相手にも悪いところがあった、仕方なかった、この程度のことはみんなやっているのだから傷つく方がおかしい、悪気はないのだから……様々な「謝らなくていい言い訳」を考えて自分の過ちと向き合うことから逃げていました。特に教師と生徒というどうしたって力関係が発生する間柄では、自分が100%悪くても相手に「聞き分けがない」「反抗的」というレッテルを貼ることができてしまいます。

そういう生き方をしていたせいで、もう今更謝っても取り返しがつかないと思うような人たちと出会い、そして別れてきました。

今更謝っても仕方がない、という気持ちがないわけではありません。でも、教員10年目という節目を終えようとしているいま、やっぱりどうしても謝りたいと思う生徒に手紙(A)を書くことにしました。(書き始める勇気が出ないから今キーボードをたたいています)

いまさらAに謝って何になるんだろうと思います。Aはもう二度と私のことなんか思い出したくないかもしれない。あるいは私のことなんかとっくに忘れて幸せに暮らしているかもしれない。それなのに今更。どちらにせよ、「赦してほしい」なんて言えない。あれだけ傷つけたのにその上私のことを赦すなんて重荷を背負わせるわけにはいかない。手紙を書いたって捨てられたって仕方ないし、心のどこかでそのくらいの仕返しはしてほしいという気持ちもあります。

それならどうして手紙を書きたいのか。

多分、責任の所在をはっきりさせたいんだろうと思います。あの時、私は教師と生徒という力関係の中でAが悪いという物語をつくってしまった。今更あの時の関係者全員に「Aは実は悪くなかった」と言うこともできません。でも、せめて私とAの間では、私が加害者でAが被害者なのだということをはっきり伝えたい、「あなたは何も悪くなかった」ということを伝えたい、そんな気持ちです。

それにしたって、自己満足かもしれません。今更そんなこと言われたってAにとって何のいいこともないかもしれない。本当に書くのか、本当に送るのか、本当に読んでほしいのか、よくわかりません。

謝るってなんだろう。

大抵の場合、「ごめんなさい」という言葉には「赦してほしい」「あなたとまた関係を築きたい」「これから仲良くやっていきたい」という気持ちがこめられていると思います。でも、私はAに赦されたいとは思わないし、関係を築くとか仲良くするとかは都合が良すぎると思います。

聖書が描くゴールには和解があるように思います。私は『クイア・レッスン』にある赦しの定義が好きです。(自分が被害者側である時にこれが実践できているわけではありません)


赦しは暴力を故意に忘れることでは決してない。赦しは、あまりに多くの教会が羽織ることができないでいる平和を告げる預言者の衣をクイアな人が羽織り、加害者と協力しながら働くことによってもたらされるより公正な未来を忘れないための誓いである。

コディー・サンダース『クイア・レッスン』246頁


でも、これを加害者側である私が言うのはさすがにダメだとわかっています。傷つけた相手に向かって「未来」なんて語っちゃいけないと思うのです。加害者には「謝る」以上のことは許されていないんじゃないかと思うのです。

私はAに謝って、その先どうしたいんだろうと思います。神さまは赦してくれるとして、それでも発してしまった言葉は取り消せない。Aの痛みが癒えないのに私が謝ってすっきりするも絶対におかしい。Aとの間に起こったことを教訓にしてポジティブに生きるのも違うと思う。一昨年和解についてのセミナーで聞いた「毎朝(自分が罪を犯した)被害者と一緒に朝食をとる」という言葉と出会いました。多分私はこれからもずっとAと一緒に朝食をとり続けるのだと思います。Aのことは忘れない。Aにしたことを悔やみ続け、第二のAを生み出さないために心の中のAに教えてもらいながら生きていくのだと思います。

それなら節目のいま「謝る」という行為は何の意味をもたらすのか。さっぱりわからないなと思いつつ。