ひさかたの存在として(2025年1月学校礼拝)

召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。(ペトロの手紙第一1:15-16)

※1月30日学校礼拝で語ったメッセージです。だいたい1か月に1回くらいのペースで語ってはいるのですが、年明けは卒業していく高3を意識して。今年度は年明け2回礼拝の担当があるので今回は高3スペシャルその1。



今日の聖書の箇所には「聖」という言葉が何回も出てきました。「聖なる者となりなさい」そう書いてあります。この「聖」という言葉に、みんなはどういうイメージを持っているでしょうか?

この 3 年間、”聖”望学園とか”聖”書とか、みんなはこの「聖」という言葉に親しんで?きました。一般的には「一点の汚れもなく清く正しく 」っていうイメージ、あるいは、ちょっと浮世離れしてふわふわして宗教的で……なんていうか、日常生活と関係ない言葉のように思われているかなと思います。
でも、聖書の中の「聖」って、ちょっと一般的に言われている意味とは違うニュアンスを持っているんですね。ギリシャ語ではハギオスっていう言葉なんですけれども、このハギオスは神さまの性質を表す言葉なんです。

私はハギオスという言葉を日本語訳するとしたら、「聖」よりももうちょっとニュアンスが近い言葉があるんじゃないかなと思っています。それは「ひさかたの」という枕詞です。枕詞、と聞いてすぐにわかるでしょうか? 和歌に使われる言葉で、現代語訳する時は訳しません。けれどもある特定の言葉を引き出す働きをする言葉です。多分「ひさかたの」がつく和歌で一番有名な和歌は紀貫之の歌じゃないかなと思います。

ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ/紀貫之

現代語訳できるでしょうか? こんな日の光が穏やかな春の日なのに、どうして桜の花は落ち着きもなく散るのだろう。そんな風に訳されます。
この「ひさかたの」という言葉の語源は諸説あります。中でも私が好きなのは「久しぶり」の「久」に「方向」の「方」と書く「久方」。遠いところという意味です。「ひさかたの」は久方=遠いところにある空とか天とか月とかそういうものを引き出す。あるいは久方からくる光や雨や雪などを引き出す。私は「ひさかたの雪」という表現がものすごく好きなんですね。たとえば手のひらに雪が降ってきてここに雪があるとして、この雪は確かにここにあるんだけれども、ただ「雪」と言うのではなく「ひさかの雪」と言った時に、この雪は久方から遠いところからやってきたんだなってちょっと天に思いを馳せる。そんなイメージがあります。

聖書の「聖」も似ているなと思います。「聖なる者となりなさい」というのは、言い換えれば「神さまのように生きなさい」ということです。「神さまのように生きる」というのは、大袈裟で不可能なことだと思うかもしれません。

もちろん私たちは神さまじゃないんだけれども、私たちの生き方がちょっと神さま的なものを連想させる、久方にいる神さまに思いを向けさせる、そのようなものになるということはあり得ることなんじゃないかなと思うんです。

聖書の中で神という存在はどのように描かれているでしょうか? 3 年間あるいは 6 年間学んできたことをちょっと振り返ってみてください。
高3 の初めにも創世記 1 章をやりましたし、多分高1 の時も創世記 1 章やっているかなと思います。神さまが「あれ」と言って、世界を創造していく。そんな様子が創世記 1 章には描かれています。神さまという存在は聖書の中でいのちを創造し、育む存在として描かれています。
福音書もやりました。イエス・キリストのストーリーが描かれている福音書です。その福音書の中でイエスという人は病気の人を癒し、悪霊にとりつかれた人を解放し、ひとりぼっちでいる人の友達になり、生きる力を損なっている人に生きる力を与えています。

私はみんなにもそういう存在として生きてもらいたいなと思っています。いのちを創造するというのは無理な話です。それは神さまにしかできません。でも、いのちを大切にして、いのちを育んで、生きる力を失っている人に生きる元気を与えていく、そういう存在になることはできるんじゃないかなと思うんです。

皆さんの周りでいのちを損なっている人・生きる元気を失っている人っているでしょうか? 私は最近、ある方が亡くなったという悲しいお知らせを聞きました。

※プライバシーにかかわるため中略

私の周りには自分で自分の命を絶ってもおかしくないくらいしんどい状況にいる人が、実は結構たくさんいたなっていうことに気づいたんです。
生きるのが大変な人は沢山います。友だちがストレスで仕事を休んだり辞めたりするのを何度も聞いてきました。学校でもいろいろな人に出会いました。この子ちょっと最近休みが多いなって思って、担任の先生に確認すると、「この子今学校に来るのが大変な状態なんです」ってよく聞いてきました。

きっと生きるのが大変な人は私たちの周りにたくさんいると思うんです。
そういう生きることが大変な人たちに生きる力をちょっとでも分け与える存在になってほしいなと思うんです。自分にはそんなことはできないよ、それは専門家の仕事だよって思うかもしれません。
でも、私にはここにいる全員がそのポテンシャルのある人だと思うんです。学校の先生にとって生徒というのは「ひさかたの存在」だからです。
学校の先生も人間なので、プライベートで大変なことも仕事がうまくいかないこともたくさんあります。私も授業をやりながら、最後の週までこのクラス、どうやって授業やったらいいんだろうっていろいろ悩んでいました。でも悩んでる時もしんどいなって思う時もやっぱりクラスでみんなと関わってると元気が出るんですよね。そんなに元気に授業やってない時もあるんですけれども。でも、そういう元気がない時にふっとみんなのことを考えた時に、この子たちが生きているというだけで世界はなんて素晴らしいんだろうって何度も思ってきたんです。神さまってすごいなって、こんな素晴らしい存在を造ることができるんだからって、私は一人一人と関わりながら思っていました。
なのでみんなは、気づいてないかもしれないけれども、すでに私にとっての「ひさかたの存在」になってくれています。担任の先生や他の授業の先生にとってもそうなんじゃないかなと思います。みんなのご家族にとっても。
私たちは人間に過ぎないけれども、みんなの日々の言葉が振る舞いが、誰かにいのちの温かさや人生の素晴らしさをちょっとでも伝えるものになるのだとしたら、それは聖なるものであり、ひさかたの存在なんだと思います。どうかこれからも「ひさかたの存在」として生きていってください。

※不定期更新中

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