教会で歌会をやってみた(ちょっとクイア・レッスンな話)

教会にとってクイア・レッスンは理解しがたいものかもしれない。それは私たちがいつも教わる教師が教えてはくれない類のものだ。教会はあまりにも長い間、クイアな人々に対して「教えること」を試みてきた。……教会は今こそ「クイアに教えようとする」立ち位置から「クイアから学ぶ」立ち位置にシフトすべきだろう。(コディー・サンダース『クイア・レッスン』38-39頁)

前置きとして専門用語の話を。
非キリスト教家庭に生まれた私にとってキリスト教用語は母語ではありません。中学生で初めて教会に行き、教会の「仲間」になるために必死に身に着けた言語です。私の家族にとってもそうで、せっかく教会に誘っても多分半分も意味が分からないんだろうなと残念に思うこともよくありました。キリスト教学校の聖書科教師になってからは私と同じくキリスト教用語を母語としていない人たちの中で、その人たちに向けて福音を翻訳し続ける仕事をしていました。
私にとってキリスト教用語を含む専門用語というのはセンシティブにならざるを得ないものです。

そんな私が教会で歌会を主催することになりました。
以前も教会内で歌会を開催したことはありました。そこに集まるのは教会のお馴染みのメンバー。母語であるかはともかくとして、ある程度キリスト教用語を扱える人たち。そしてこれまで短歌に触れないで生きてきた人たちなので短歌用語は知らない人たち。共通の言語を持つ人たちでした。
一方今回の歌会は私の繋がりで集まる人たちなので、Twitter短歌界隈の友達(「歌友=うたとも」と言います)もいればTwitter以外のところで出会った歌友さんも、人生で初めて教会を詠むという教会の人もいます。歌人同士でも結社をフィールドにしているかSNSをフィールドにしているか等で文化はやや違います。どちらの界隈も知っているからこそ、短歌用語とキリスト教用語というばらばらの言語でのコミュニケーションが成立するのか実は不安でした。

歌会とは参加者が事前に提出した作品を匿名の状態で事前に配布し、当日はそれぞれの歌について感想を言い合うというものです。話すのがメインなのでリスニングが必要になります。
「ショクからニクにかけてのクマタガリがシュタイの心情を表し~」みたいな言葉を短歌用語を使い慣れていない人が聴きとれるだろうかというのが心配だったので事前に用語を配布しておきました(初句、二句、句跨り、主体……)
これである程度リスニングは問題ない、と思ったところで提出された作品を見て別の心配が。
同じ教会の仲間として、(しかも私は作者を知っているので)情景が浮かんで感動する作品。ちょっと泣けちゃう、とすら思う作品。けれども、クリスチャンであれば難なく読めるけれども、キリスト教文化に慣れていない人はそもそも音読に苦労するだろうという単語が使われていたのです。せめてルビを振ろうかと思いましたが主催とは言え他人の作品に手を加えることはできないのでそのまま配布しました。

当日、案の定音読ができない、音読できた人も意味はわからない。
ただ、不思議なことにその歌は教会外の歌友さんたちに好評だったのです。「クリスチャンの人はこういう感覚なんだと思って新鮮だった」「自分には詠めない歌だ」「この人にしか詠めない歌だ」
実際、匿名にはしたけれど同じ教会の仲間であれば○○さんの歌だとすぐにわかる作品でした。

ふと以前歌友さんとした会話を思い出しました。「私はキリスト教以外のことを勉強したことがないので専門性のある歌が詠めない」と相談した時、「キリスト教徒であるというのは美好さんの強みだと思う」と言われたのです。「自分にはキリスト教の歌は詠めない。美好さんのキリスト教の歌を読みたい」と。
短歌の世界には「職業詠=しょくぎょうえい」というジャンルの歌があります。自分の仕事をテーマにする作品です。その職業の人ならではの視点が面白いのです。教員歌人は多いので教員詠はよくありますが、勤務形態や教科等で個性が出ます。他業種の人の気持ちも状況も私たちにとっては「わからない」ものです。けれども、職業詠を通して私たちは、「わからないもの」に共鳴することができます。職業詠は「この人にしか詠めない歌」です。
今回の歌会で提出された○○さんの歌もそういうものとして受け止められたのです。

教会を会場にしてクリスチャンが多数を占める歌会で、キリスト教信仰が「受け止められた」「受け入れられた」瞬間でした。

証というのとも少し違う。でも、とても素敵な瞬間だと思ったのです。

冒頭の『クイア・レッスン』の引用に戻ります。
教会は教会の外の人たちに対して「教える」立場にあることが多いように思います。教えてあげる、導いてあげる、受け入れてあげる……そして、「教会はどうしたら○○な人たち(クイアな人、障害を持つ人、他宗教の人……)を受け入れることができるか」を問うてきました。常に上から目線の宣教、私たちはほとんどそれしか知りません。
けれども、本当に必要な問いは「教会はどうしたら○○な人たちから受け入れてもらうことができるのか」ではないかと思うのです。へりくだり、赦しを請い、足元に跪くことで福音は伝わると思うのです。

歌会でそれをしようと思ったわけではありません。むしろ私は、短歌界隈とキリスト教界隈はコミュニケーションは本当に成立するのかひやひやしていました。

でも、私が見たかったもの、どうしても見ることができなかったものをその時見せていただいたように感じました。


歌会のおやつは平塚の生チョコ専門店シルスマリアのケーキ
おともだちの河童(河太郎くん)が来てくれた🥒




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