ぬい撮りアカウント一年やってみた②
ぷーとん牧師@平塚聖契キリスト教会(@pastorputon)さん / X
小さなくまとの出会いから少しずつ、ぷーとんアカウントは動き始めました。ぬい撮り界隈はそれなりにそれなりのコミュニティを形成しています(短歌アカウントも同様です)。「××さん、ぷーとん先生の教会に行ったんだ」「いいな、行ってみたかったんだ」そんなコメントを見るようになりました。「こぶたじゃなくて河童だけど教会に行ってもいいの?」「仏教徒なんだけど教会に行ってもいいの?」と聞かれるようになりました。
そしてクリスマス。
初めてクリスマス礼拝に参加してくれたぬいさんがいたこと。そのぬいさんは「平塚教会は敷居の低い教会」と投稿してくれていました。「中の人」(特に牧師)がどんなに「アットホームな教会です」と言ってもそんなに信憑性はないかもしれないけれど、「中の人」でない人がそう言ってくれるのはとてもとても嬉しいことでした。ヨハネの福音書4章のサマリアの女性を思い出しました。福音を聴いた人から人へと福音が伝わっていく。「中の人」が頑張るのではなく、福音の力がそれを広げていく。そんな様子を見せてもらっているようでした。
そして、イブの祈祷会にも初めての方が。何度も何度も「~だけど行ってもいいの?」と聞いてくれた人です。「神社やお寺にはいつでも入れるのに教会は閉まっている」「来てもいいって言われた教会はここが初めて」その言葉に、「教会に行ってみたいけれど言っていいのかわからない」人が沢山いるんだなと改めて実感しました。
私はいわゆるクリスチャンホームの出身ではありません。小学生の時から「教会に行く」ということに憧れていたけれど、教会に行くというのにはなにか特別な資格があるんだと思っていたのでわざわざキリスト教主義の学校を受験したのです。一般の人にとって教会とは「許可制」なんだと気づいたのです。
前の記事でも書いたようにぷーとんアカウントは「ライト層のための窓」でした。聖書のメッセージは教会に来てからで良い、公式のYoutubeだってあるのだから説教じみたことを言う必要はない。
けれども、少しずつ少しずつ、自分がこの界隈で「宗教者」として見られているということに気づき始めました。「聖書の有難いお話」にカジュアルに触れてみたい人がいる、この顔も名前も性別すらわからない「牧師」に「宗教者」としての言葉を語ってほしいと思っている人がいるということに。
半年以上「ジャンル違いの投稿はしない」と決めていたのですが、もしかしたらその半年で「SNSぬい撮り界隈の人」としてある程度信頼してもらえるようになったのかもしれません。
ただ、そうでもないということにも気づき始めました。
平塚教会にはぬいさんに限らずクリスチャンではない人たちが来てくれます。その方々と関係を築くうちに、その人たちが教会に来るのは「求め」があるからだとわかってきたのです。その「求め」はいわゆる「求道」というのとは違います。けれども、ぬい友がいるから・写真が撮れるからという以上のなにかを求めてきている、だからその人たちにとっては教会でなければ、あるいは平塚教会でなければいけないのだということにも気づき始めました。
そして、平塚教会に来ることでそのなにかが少しずつ満たされているのを見るようになりました。
私はその人たちと友達なのか宗教者なのかそのどちらもなのかよくわからない立ち位置で仲良くしています。
どんな人の中にも「求め」があるんだな、そんな当たり前のことを実感させられています。
ぬいぐるみで騙して油断させて捕獲しようとしているわけではないので、無理に回心を迫ったりはしません。だからその人たちが信仰を持つかどうかは私にはわかりません。
でも、出会った人たちが今日を一歩前向きに生きていく力を得られるなら、そのお手伝いができるなら、これほど嬉しいことはありません。
この1年、いろんなぬいさんが来てくれました。
「ない」づくしの牧師が「ない」なりに消去法で始めたぬい撮りアカウント。でも、たった一年で幸せを沢山経験させてもらいました。ぷーとん牧師から祝福が、ありえないほどのスケールで広がって行きますように。
【番外編:最近撮った中で1番お気に入りのぷーとん】







