【感想】藤本満『LGBTQ 聖書はそう言っているのか?』



夏に手にして目次を見ただけで感動してしまったこの本。優れた書評はあちらこちらで見かけるので、私は藤本先生の本を読みながら考えた個人的な思いをシェアしたいと思います。

この本は私が長い間待ち望んでいた本でした。
私がセクシュアリティの研究を始めたのは大学院の時、今から8年ほど前のことです。当時の私は伝統的(かつ差別的)な考え方を持っていました。けれども研究をはじめ、多くの「当事者」と呼ばれる人たちと出会い、私がそれまで「聖書的」と思っていた考え方が多くの人を傷つけ苦しめ、教会から排除していることに気づきました。「聖書」は本当に特定の人たちを傷つけ、苦しめ、排除するように命じているのだろうか、「聖書的」であることと隣人愛は対立するのだろうか、でも、聖書は確かに人を大切にするよう命じているのに……そんなもやもやとした思いを解決したのが、そして私が悔い改めるきっかけになったのが山口里子『虹は私たちの間に』でした。

人と出会うこと、聖書と向き合うこと、悔い改めること、この三つが私を現在の場所に導いてくれました。
そんな私にはずっと持っていた願いがありました。それは福音派の中からこのテーマについての本が出てほしいという願いでした。
性的マイノリティと呼ばれている人たちを愛したい、でも聖書を読むとその方々を愛することが難しく思える、そんな悩みの中におられる方は福音派の中にきっと沢山おられるだろうと思うのです。そしてそれは、とても窮屈で苦しいことだとも思います。そしてそれ以上に、ひとりの人として尊重されず、断罪され、疎外されてきたマイノリティの方々が教会の中におられます。あるいは、もう教会にはいられないと、信仰を持ったままで教会を離れるか、あるいは信仰を捨てざるを得なかった方がおられます。それはどれほどの痛みでしょうか。「神のことば」というものが人をそのような分断に陥らせるというのはあまりにも悲しいことです。
私が経験したように、人と出会い、聖書と向き合い、悔い改めることができたような本が福音派の中で出版されてほしいというずっと願っていました。「福音派の中で」というのは、福音派の外にはそういう本がすでにあるから(『虹は私たちの間に』もそのひとつ)ということが一つの理由です。そして理由はもう一つ。私はある程度自分と聖書観が違っても気にせず神学書を読むことができますが、やはり自分と近い聖書観を持った人の、自分と近い文脈の中で書かれた本を読みたいという人は沢山いるだろうなと思っていたからです。
自分で書くしかないのか、でも、すでに出版されている本を超えるようなものは今の自分の実力では書けないし……と思っていた時に藤本先生が本を執筆されているというお話をうかがい、この本の出版を心待ちにしていました。
この本は藤本先生ご自身が人と出会い、聖書と向き合い、悔い改めた結果生まれた本だと思います。そして私たちが人と出会って生きていくこと、ともに聖書と向き合うこと、そしてともに悔い改めることを呼びかけてくれる本だと思います。

伝統的に同性愛断罪の根拠とされてきた箇所を丁寧に解説してくださっていますが、細かい聖書の解釈については本書を読んでいただくとして、序章と9章の中で私が心に留まった3箇所を以下に挙げたいと思います。

■さて序章において、私は特にテクストが置かれている時代的/文化的コンテクストを理解する大切さを強調しておきます。テクストに普遍的な真理があるとしても、神の言葉である聖書は人間の言語によって記されています。すなわち、それは記された時代の問題や出来事を扱い、その時代の特定に浸された言語です。その内容が歴史的な出来事や背景に関わっている限り、ただ聖書の文字を読んでいても、テクストの意味に到達できません。(本書9頁)
本書が「聖書とは何か」ということから始めているというところに、私は感動しました。同じ「聖書を読む」という行為をしていても、私たちは様々な聖書との向き合い方をしています。聖書が「神のことば」であるなら、その大切な「神のことば」と向き合う時に、私たちはどのような姿勢を持つのかということが問われていると思うのです。そしてその「神のことば」は神と人とを愛するために私たちを整えてくださるとも信じています。もしも「神のことば」が神と人とを愛することを阻むように思えるのだとしたら、それは私たちの聖書との向き合い方にずれがあるということだと思うのです。

■LGBTQの話題になると、教会は冷静に対論を交えるということは難しいのが現実かもしれません。それでも聖書に関わる議論があれば、互いに尊敬を払い、その違いを受け入れるのがキリスト者です。しかし、もしLGBTQに関わる議論の背後に、現代では社会的病理であると認識されている「ホモフォビア」(同性愛嫌悪)があるとしたら、どれほどの情報を集めて論議しても、壁は1ミリも動かないでしょう。(本書19頁)
ホモフォビアという現実、そしてそれが社会的病理であるということも、このテーマを扱う上で理解しておかなければならないことだと考えます。私たちは皆、「中立な立場」で聖書を読むことはできません。それまで培ってきた経験、知識、先入観、こだわり、個性、そういった色々なものに影響されながら聖書を読みます。それが私たちの聖書の読みを豊かにしてくれることもありますが、逆に、人を愛せない・神さまに信頼できない方向に私たちの読みを歪めてしまうこともあります。だからこそ私たちは日々悔い改めながら聖書と向き合わなければならないのだと思います。

■こうして考察してみると、必要なのはLGBTの側の転換ではなく、恥のレッテルを貼り続けて来た者たちの転換ではないでしょうか。そこには知識の転換・偏見の転換・常識の転換・伝統の転換が含まれています。聖書の歪んだ読み方も転換することが求められます。問題は当事者の側にあるのではなく、社会の側に、そして私たち一人一人の心の中にある愛と共感性の乏しさ・差別意識にあります。(本書275頁)
「LGBTQ問題」というような表現を見かけることがありますが、マイノリティ問題を考える時に大切なのは問題なのはマイノリティの側ではなく、マイノリティを差別し、虐げているマジョリティの側であるという意識は大切です。1世紀のユダヤ社会では「罪人」として排斥されてきた人たちがいました。課題は排斥される側ではなく排斥する側にあるのだということをイエスさまは言葉と行いで示してこられました。この表現を厳しく感じる人もいるかもしれませんが、私は「転換」という言葉に希望を感じます。「転換」とは「悔い改め」のことを指しているのだろうと思いますが、「悔い改め」とはキリスト者の希望です。神さまのみこころを損ない、人を傷つけ、そのことによって自分自身や自分たちの共同体をも傷つけてきた人たちが神の国を生きるにふさわしいものに変えられる。それが「悔い改め」です。私たちは悔い改めることができ、新しい生き方をすることができるのです。

続いて、本書の中で同意できないあるいは課題に感じることについても3か所挙げておきたいと思います。

■『”LGBTQ”聖書はそう言っているのか?』というタイトル
本書に限った話ではないのですがキリスト教界で「LGBT」あるいは「LGBTQ」というタイトルで何かが語られるとき、多くの場合同性愛が話題の中心になることがほとんどで、トランスジェンダーやそのほかの性的マイノリティについて触れられることはほとんどありません。本書も同性愛断罪の根拠とされてきた箇所の釈義が主となっています。トランスジェンダーにあたる人が聖書に登場しない(宦官や異性装についての箇所がトランスジェンダーとの関係で取り上げられることはありますが)ため、それは仕方のないことだと思うのですが、知識が乏しく同性愛とトランスジェンダーの違いがわからない人も多くいるキリスト教界ではこの点については丁寧に扱った方がよいのではないかと私は思っています。

■「否定派」「非肯定派」「肯定派」という分け方
著者は自身を「肯定派」という立場で論じています。議論をわかりやすくするためにはこれも仕方のないことだと思いますが、少し引っかかります。著者の分類に従えば私も「肯定派」ということになるのですが、私は性的マイノリティを「肯定」しているつもりはありません。すでにこの社会の中に生きている人をマジョリティ側が「肯定」する、もっと言えば「認めてあげる」というのは烏滸がましいことに思います。著者がそのような上から目線でこの言葉を選んだわけではないことも著者が謙遜な方であることもわかっていますが、私には違和感がありました。とはいえ、それならどういう名称にすれば良いのかというと私にも答えがわかりません……。

■「異性愛/同性愛」を聖書の文脈に持ち込むこと
たとえばローマ1:24-27について以下のような記述があります。「しかしここでパウロが記しているのは異性愛者が異性を対象とした性行動で満足できず、より刺激的で手に入りにくい刺激へと駆り立てられ、その結果、歪んだ情欲に基づいて、同性へと欲望の手を伸ばしたという、神の裁きの現実のことです。」(本書176頁)同性愛断罪に用いられてきた箇所が実は同性愛者のことを指しているのではないのだ、という主張のための記述だということは分かりますし、私もその点は同意するのですが、果たしてこの箇所が「異性愛者」について述べているのかというと私は少し現代の概念を読み込み過ぎているように感じます。「同性愛」という用語は1869年にドイツの性科学者がはじめて現代使われている意味で用いたと言われています。聖書が書かれた時代に「異性愛/同性愛」といった概念、「異性愛者/同性愛者」という区分があったとは思えません。「異性愛者が」という主語で語ってしまうのは現代に引き寄せ過ぎではないかなと思います。

【まとめ?】
本書の出版は私にとっても大きなことでしたが、福音派にとっても決して小さなことではないと思っています。「神のことば」によって人を排除し、あるいは人から排除されてきたという悲劇がこれ以上繰り返されないために、この本が用いられてほしいと心から願います。
まだお読みになっていない方、是非お読みください。
また、私が著者の藤本満先生の勇気にも支えられているということもこの場を借りてお伝えしておきたいと思います。(もう何回もご本人にお伝えしましたが足りません)私が安心して色々なことを発信することができるのは、勇気をもって前を走ってくださる先輩のおかげです。私のように、一人ではいろいろな課題と立ち向かえない、発信できないという人も沢山いると思いますが、そういう私たちにとって、藤本先生の存在は大きな支えです。本書の出版によってさまざまな声が藤本先生のところに、あるいは関係の方のところに届いたことだと思います。そういった声に晒されながら、謙虚にけれども大胆に小さくされた方々と共に歩もうとされる先生を心から尊敬しています。イエスさまも「徴税人や罪人の仲間」と言われました。先生の後に、そして先生の前におられるイエスさまに続いて歩んでいきたいと思います。