教育

現代では「宗教」や「神」といったものは胡散臭いものとして扱われることが多い。それに対して科学には皆厚い信頼を寄せている。何かが「科学的」だといわれれば、その信頼性が増すように思えてくる。[…]科学と宗教の大きな違いは、その性格にある。科学は現象を検証してそれが起こる因果関係などを解き明かそうとするが、その現象の意味は考えない。[…]しかし宗教とは、ひたすら神との対話の中で生きていることの意味やその目的などを探そうとする試みなのである。
佐原光児『希望する力』83頁

私は現在キリスト教学校で働いています。キリスト教学校での聖書科教員というのは、「中高生の中に遣わされる宣教師」だと私は思っています。「中高生」は大人にとっては異文化です。言語を覚え、文化を覚え、異文化コミュニケーションをしながら福音を伝えていきます。授業の中でこころのデリケートな部分にも触れるので、こころの傷のケアもしていく必要があります。

※余談になりますが、自分が「中高生の中に遣わされる宣教師」だと自覚するのは、中高生以外と関わる時だったりします。小学生と関わる時、言語も文化もわからずどうしたら良いかわからなくなると、それと比較して「中高生」という文化はそれなりにわかってきたのだかな、と思ったりします。

そんな教員生活も8年目、学校は4校目になりました。
私の教員としての土台をつくってくれたのは、3年働いた最初の学校でした。
最初のA高校は聖書を神の言葉と信じ、信仰と生活との唯一絶対の規範とする福音派の私にとっては衝撃的な学校でした。
福音派のキリスト教学校が少ないこと、(当時は)福音派の信徒が聖書科教員になるのは難しいことはわかっていました。中学から福音派でない学校に通っていたので福音派と主流派の違いもある程度は理解していました。けれども、A高校の他の先生の神学は、当時の私には「異端」としか思えないものでした。(現在はそう思っていません)上司や同僚を「仲間」と思うことができず、1年目はスタンドプレーばかりしていました。
そんなある日、雑談の中で同僚のN先生が言った言葉があります。

「お前たちは神さまにめちゃめちゃ愛されている。俺が伝えたいのはそれだけなんだ」

はっとしました。
同じだ、と思ったのです。
私とN先生の聖書観は違います。聖書解釈は違います。でも、伝えたいメッセージは一緒だったんだ、と。
どんな聖書観をもって聖書を読んでも「神さまにめちゃめちゃ愛されている」というメッセージを読むことができるんだ、と。
そして、伝えたいことが一緒なら、神学が違ったとしても何が違ったとしても、一緒に同じ方向を向いて「仲間」として働いていくことができる、と。

N先生の言葉は、今も私が教員として働く上で大切にしている言葉です。教員として私がしなければいけないことは「神さまにめちゃめちゃ愛されている」というメッセージを伝えることであって、それ以外のことはそのメッセージに比べたら取るに足りないものなのだ、と思っています。
(私もそうでしたが)授業で習ったことというのは、時間が経つと忘れるものです。テストが終わった瞬間に一夜漬けの知識が消えてしまうこともあります。でも、何を忘れてもいいけれど「神さまにめちゃめちゃ愛されている」ということは生徒の心に残るように。そのことを信じても信じなくてもいい。でも、聖書には「神さまにめちゃめちゃ愛されている」と書いてあって、先生も確実に愛してくれた…そんな記憶がちゃんと残るように。

その上で大切にしていることがあります。教員として当たり前のことですが教育です。
キリスト教学校の目的は「伝道」ではなく「教育」だと私は思っています。

※「伝道」と「教育」に関しては学校や教員によって様々な意見があるかと思いますが、個人的には「教師ー生徒」という力関係がある状態で「伝道」することは好まないので、意識して「伝道」しないようにしています。

私の考える「教育」とは、神のかたちとして回復され、自分の頭で考え、自分の足で歩いて行ける人になるための手助けです。
神さまが生徒ひとりひとりを「神のかたち」として創造された。ひとりひとりには価値があり、使命があり、その価値と使命にふさわしく生きることができる。かれらのいのちを阻害しているずれを除き、尊いいのちとしてのアイデンティティを確立させ、自信と責任をもって人生を歩めるように「聖書」という授業によって有益なものを与えていく。それが「教育」です。
その手助けのために聖書のみことばや自分の人生と徹底的に向き合わせます。

授業では二つのことを大切にするように生徒に伝えています。
一つ目は「本気」
聖書の授業は自分や自分の人生と向き合う時間。だから本気じゃないとできません。本気じゃないと意味がありません。本気で向き合ってください。そう伝えています。
二つ目は「本音」
あなたは何を感じてもいいし何を考えてもいい、どんなことを表現してもいい。そして、授業の中でつらくなったり悲しくなったり嫌だなと思ったら、無理をしないで心を休めて良い。「本気」だけじゃなく「本音」を大事にしてあげてください。とも伝えています。

私は「伝道」はしません。
でも、みことばと「本気」「本音」で向き合っていけば、福音に触れることができる。福音に触れれば人は変わる。そう信じているので、結果的には「伝道」にもなっているのだと思っています。

現在は中1のキリスト教入門高3のキリスト教倫理を教えています。
キリスト教倫理は専門なので教えていて楽しいですし、何より一方的に教えるのではなく、こちらも生徒から学べる、学び合う授業ができるというのが最高です。人生は遠足だ。一人で生きていくのではないし歩きやすい道ばかりではない、大切なことはいくつもあるけれどそのすべてを大切にはできない。だから自分で何を大切にして生きていくか責任を持って決めなさい。そう言って始めて生命倫理や正義の問題を取り扱います。
キリスト教入門を教えるのは決して得意ではなかったのですが、はじめて聖書に触れる生徒の最初の門になれるというのは喜びです。聖書科の寂しいところは何かが「できる」ようになる現場に立ち会うことが少ないことなのですが、「聖書の開き方」の授業は数少ない「できる」に立ち会える瞬間です。生徒が教え合う姿は愛おしいですし、「できた!」という声が聞けると幸せです。

そして、教員という仕事の一番幸せなところは「この子たちが生きているだけで世界は素晴らしいと思える」ということだなぁとつくづく思います。
神さまはこの子たちをめちゃめちゃ愛しているんだな、この子たちが幸せであるように願っておられるんだな、そういうことを日々実感できます。

※キリスト教学校の聖書科教員が何をしているか、キリスト教学校出身でない方にとっては未知の領域なんじゃないかなと思うので、今度「聖書科教員の日常」の記事を書いてみようと思います。

ちなみに授業で使っている教科書です。おすすめです!!