神学と暴力
人間を支配するためにはいろいろなテクニックがあり、それによって操作された人は心に傷を受けます。そして、「信仰」という名をもって虐待を受けた人たちの傷は、恐るべきものです。人間の精神的な面を支配するのでなく、霊的な(魂の深みの)部分にまで虐待が及んだ場合には、傷はとても深く、立ち直るのに非常に時間がかかります。
パスカル・ズィヴィー『「信仰」という名の虐待」18頁
私が、なるべく使わないように気を付けている言葉が三つあります。
「愛」
「神さま」
「聖書」
です。
それは、この三つの言葉が(特に相手が信仰者の場合に)暴力の可能性を孕む言葉だからです。暴力とは、最初に引用した「信仰」という名の虐待のことです。
誰かに対して「あなたを愛しているからあなたに〇〇と言う」「あなたを愛しているから私はあなたに〇〇をする」というのは、時に相手のいのちを非常に深く傷つけます。愛を動機にした暴力は、悪意を動機にした暴力以上に相手を蝕むものです。「愛」と言われてしまうと、被害者は加害者に何も言い返すことができなくなってしまうからです。
そして大抵の場合、愛を動機にした暴力は加害者側も暴力であるという自覚はありません。被害者も暴力を受けているという自覚はあまりないのではないでしょうか。だからこそ、「愛をもって言ってくれているのだから、傷ついてはいけない」と思ってしまい、余計傷つくのです。家庭内の虐待と同じ構図です。
無意識の暴力に繋がるからこそ、私は「愛」という言葉をあまり使いたくありません。
また、別の視点ですが、「あなたには愛がない」という言葉は、信仰者にとってはとてもショックな指摘になります。これも非常に深く相手を傷つけることになりかねないので使いたくはありません。
「神さま」「聖書」という言葉も暴力の可能性を孕みます。
そもそも「聖書(あるいは神さま)は〇〇と言っている」と言い切ってしまって良いのか、ということは難しいことです。「聖書は〇〇と言っている」という表現をする場合、基本的には「聖書」が明確に何かを言っているのではなく、「私が聖書を〇〇と読んでいる」「私が聖書を〇〇と解釈している」という方が正しいのです。
そして「神さま」「聖書」を持ち出す暴力は宗教的権威を帯びた暴力であり、「愛」同様、信仰者のいのちを再起不能なまでに傷つけます。
単に人間の解釈に過ぎないものによって、神から裁かれたかのような大きな傷を相手に残すということを、私はしたくありません。されたくもありません。
「神学/シンガク」が人のいのちを深く深く傷つけるのを、私は見てきたし、自分自身がされたこともあるし、したこともあると思います。
「愛」「神さま」「聖書」この三つの言葉は刃物です。凶悪な殺人兵器になり得るものです。
私はむやみやたらと刃物を振り回す人間にはなりたくないと思っています。
ですが、それでも私は「愛」「神さま」「聖書」という言葉を使います。
このブログにもみことばを引用しています。
それは、これらの三つの言葉は凶悪な殺人兵器になり得るだけでなく、一人の人を真に癒し立ち直らせ回復させ、社会を変革していく力を持つものだと思うからです。
これらの言葉が癒しと回復と変革の力を持つのは福音と結びつく時だと思っています。
福音には癒しと回復と変革のメッセージがこめられています。
刃物は人を傷つけることもありますが、手術に使うこともできるものです。
だから私は、これらの言葉を使う時には、あるいはみことばを引用する時にはひとつのルールを設けています。それは、「いのちを救うことにつながるなら使う」というものです。
いのちを傷つけられ、立ち直ることが難しくなっている人がいるなら、みことばによって癒されてほしい。
自分や他人のいのちをないがしろにするような歩みをしている人がいるなら、みことばによっていのちを大切にする歩みに戻ってほしい。
ただし、このルールが非常に主観的なものであることは自覚しています。
「いのちを救うことにつながる」かどうかを判断するのは私です。
「聖霊に導かれて」ということもできますが、「聖霊に導かれた」と判断するのは「ずれ人」である私です。
だから私の言葉が「いのちを救うことにつながる」どころか「いのちを大きく傷つける」ものになる可能性はいつも自覚しています。そして、これらの言葉を使う時の私の動機は「愛」なので、もし私が深刻な暴力をふるうとしたら、それは無自覚な暴力であり、自分自身で気づくことの難しいものであるということも自覚しています。
それでも、私はこれらの言葉を使いますし、みことばに基づいて語りますし、愛のために行動しますし、神学もシンガクもします。
暴力の可能性を排除しようと努力することは大切ですが、暴力の可能性を完全に排除することは難しく、それよりも自分がいつでも暴力の加害者となる可能性があると自覚することの方が大切だと考えているからです。
私はいわゆる「権威のある人」ではありません。肩書もないですし、華々しい学歴や経歴もない、女性であり、献身者の世界では若い方です。
でも、私はみことばを語る者として召されました。
「みことばを語る」とは、私自身に何の権威もなくとも、少なからず神さまの権威を借りてものを語るということです。
いつでもいのちを完膚なきまでに傷つけることができるということです。
私はその暴力性を常に意識していたいし、その暴力性を発信していくものでありたい、その上で、私たちのずれをはるかに越えて働かれる神さまに信頼して歩んで行きたい、と思っています。
4月のはじめに生徒にお願いすることがあります。「私があなたたちを傷つけたら、遠慮しないで言ってほしい」ということです。皆さんにも、私がみことばや神さまの権威を借りたり「愛」という言葉を使ったりして暴力的な振る舞いをしたら、すぐに教えていただきたいと思います。お願いします。