シンガク
だから、神学に真剣に取り組むことは、自分自身がその中に巻き込まれることであり、自分自身を神の物語の中に投じること。さらに正確に言うなら、自分が神の物語の中に投げ込まれることである。けれどもこのことは、プロであれアマチュアであれ神学者が物語そのものについていかなる疑問も抱かないという意味ではない。疑問を抱き、真剣にそれと取り組むことは神学の重要な一部分である。そして神学の世界に足を踏み入れることは、驚きを経験することである。神学とは、聖書の物語に驚きながら、探し、求め、とびらをたたくことであって、そうする者には答が与えられるのである。いつもその場で直ちにとは限らないけれども。
マイケル・ロダール『神の物語』15頁
私はシンガクが好きだし、シンガクが好きな人が増えたら良いな、と思っています。
シンガクすることで癒された経験があるからです。
私は大学卒業と同時に聖契神学校で聴講を始め、半年後の2012年4月に正規生として入学しました。
はじめから神学校が大好きだったわけではありません。そして、はじめからシンガクが大好きだったわけではありません。
入学当初、私にとって「聖書を読む」「神学を学ぶ」というのは模範解答を探すことでした。
ある聖書箇所を読み大好きだった先生のメッセージを思い出して言った感想に対し「その解釈は間違っている」と言われた経験、礼拝説教の感想を言ったところ「みことばを聞いたら行動が変わるはずだから『~思った』という感想しか出てこないなら本当の意味で説教を聞いたことにはならない」と言われた経験があり、それ以来、私は聖書や礼拝説教の感想を言うことができなくなっていました。「本当の意味で説教を聞いたことにはならない」という言葉がずっと頭の片隅にあり、「説教を聞く」ということや「聖書を読む」ということがわからなくなっていました。
模範解答でなければいけない、誰からも怒られない読み方をしなければいけない、そう思っていました。
神学校という場所は唯一絶対の正しい解釈を教えてくれる場所で、神学校に行けば模範解答を言えるようになる、と期待していました。
ですが、聖契神学校は模範解答をくれる場所ではありませんでした。
授業の中で先生がご自分の考えを言ってくれることもあります。
ですが、基本的には「自分で決めなさい」という学校でした。
いろいろな立場があり、いろいろな神学があり、いろいろな解釈がある。
自分で聖書を読み、自分で神学し、そして自分で責任を持って行動していきなさい。
そういう学校だったのです。
入学当初はフラストレーションがたまっていました。「答えだけ教えてくれればいいのに」と思っていました。「これは模範解答なのだろうか」とビクビクしながら学んでいたので、まったく楽しくありませんでした。
けれども、神学は好きになれなくても、神学校のことは日を追うごとに大好きになっていきました。
「私は愛されている」という感覚をしっかり与えてもらったからです。
神学校の先生たちは私を一人の献身者として尊重し、一人の信仰者として受け入れてくれました。献身者としては手加減なく(「できるところまでやります~」と言ったら叱られたのを覚えています)、信仰者としては果てしなく愛してくれました。認められ、期待され、信頼され、受容される中で、信仰共同体の中で受けた傷は癒されていきました。
そして、神学校という場所は祈りとみことば浸けになる場所です。授業は祈りで始まり、授業中はみことばが語られ、チャペルでまた祈り、みことばを聞き、一日が祈りで終わる…かつての傷が邪魔をして聖書を読むことが苦手になっていた私が癒されていきました。
毎週一本の説教を作る課題が出る授業を受けることになりました。ひたすらみことばと向き合う中で「神さまに愛されている」という感覚が返ってきました。毎週向き合うどのみことばからも愛しか感じませんでした。クラスではそのみことばについて自由に語り合ったりどうしてもわからないことを共有したりしました。否定されたり傷つけられたりすることはなく、みことばについて、神さまについて人と語り合うのはこんなに楽しいんだと思いました。
その授業が転機でした。
自分で聖書を読むこと、シンガクすることが楽しくて楽しくて仕方なくなりました。
シンガクすればするほど癒されていきました。
イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
ヨハネの福音書8章31-32節
このみことばは真実だったんだな。福音の真理を知れば、人は自由になるんだなと実感しました。
神学校生活は私にとって「聖書」「恵み」「信仰」を自分のものとして取り戻した、宗教改革のようなものでした。
神学校生活の中で忘れられない言葉があります。それは「福音の中心」という言葉と「神さまと人を愛することに繋がらなければ意味がない」という言葉です。
いろいろな伝統があり、神学的立場があり、解釈がある。そういう中で「〇〇でなければキリスト教ではない」と切り捨ててはいけない。福音の中心さえ見失わなければ良いのだ、ということ。
そして、私たちが学んでいるのは神さまと人を愛するためであるということ。
この二つのことは、言葉だけではなく、先生方の生き様からも教えてもらいました。
そんな神学校生活の中で夢を持つようになりました。神学校の先生や仲間たちがしてくれたように、目の前の人を徹底的に愛し、一緒にみことばを読み、その人の癒しのお手伝いをしたい、ということです。信頼関係の中でシンガクすることは癒しに繋がると体験的に学んだからです。
もうひとつは(友人には言ってきましたが、いろんな方が見てくださるブログで言うのは少し勇気がいります笑)いつか世界一簡単な「シンガク」の本を書きたい、ということです。シンガクすることは信仰生活を豊かにする、ということを神学校で学んだからです。
私は「神学」と「シンガク」を使い分けていますが、私が書きたいのはアカデミックな「神学」ではなくカジュアルな「シンガク」の本です。
アカデミックな「神学」も面白いですし、信仰生活は豊かになるし、私たちの教会の伝統や実践は「神学」の歴史の上にあります。だから必要なものなのですが、どうしても向き不向きがあると思っています。
でも、「シンガク」の方はどの信仰者にも関わりのあるものです。
たとえば、聖書の中には一見非倫理的に思える記述があります。そういう箇所と向き合った時、大抵のクリスチャンは「その通りにしよう(たとえば、違反者を死刑にしよう)」などとは思わないはずです。一見非倫理的に思えるけれど、これには何か別の意図があったのではないか、と考えるはずです。これは、その人が「神さまは愛の方である」という神観を持っており、「愛である神さまは〇〇しないはずだ」という神さまのイメージを持っているからです。
「神さまは愛の方であり、愛とは〇〇することではない」これはひとつの「シンガク」です。「神さまは愛の方」というのはすべてのクリスチャンが一致できることだと思いますが、それでは愛とは何なのか、別の言い方をするとどうなるのか…と突き詰めて考えていくと、人によってユニークな答えが返ってくるはずです。
イメージを自分の中で深く掘り、いろいろなイメージを広く知り、ひとつのかたちにしていくことが私の考える「シンガク」です。
神さまのイメージだけではありません。世界とは?人間とは?救いとは?教会とは?そういういろいろなイメージを深く広くしてまとめていくことは、私たちの信仰生活を豊かにしていくと思うのです。
そして、それは「福音の中心」と向き合い、福音の豊かさを味わっていくことにもなります。そして癒されるし、人生が楽しくなってきます。「福音」は人を生かすものだからです。
「シンガク」の楽しさを伝えていくことも私にとっては「あり得ないほどのスケールで祝福を広げる」ことです。
私が想像するあり得ないほどスケールで祝福が広がった状態、別の言葉で言うと私が想像する「御国」は、聖契神学校に少し似ています。「福音の中心」が大切にされ、いろいろな人が尊重され、自信とやすらぎに満ちて神さまの愛に憩っている…私が行く場所、出会う関係に、そんな祝福が広がっていくと良いな、と心から願っています。
「シンガク」のワクワクのお裾分け、教育について等は来週更新します。
いつも読んでくださりありがとうございます。
良い週末&主日を♪